カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その5

読んでいる歌集

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

あともうすこし、対談のつづき

16. 君の組んでいる

君の組んでいる足からサンダルが落ちそう あいもかわらず長いあしゆび *1 

〔の〕これはわたしにとっては不思議な歌です。まず上の句の光景はすんなり入ってくる。その景からさらに下の句において〈あしゆび〉にまなざしがフォーカスしていく。「素足にサンダル履いてる〈君〉の、あしゆびの長さまでをとらえている」光景って、ともすれば官能的とも言われうるかなと思うんだけど、そういう要素はあまり見えてこなかった。

《う》私もフェティッシュなまなざしはあまり感じられなかった。なぜだか清潔感すらあるように思ったな。

〔の〕わたしがこの歌ですごく気になったのが〈あいもかわらず〉の「も」。〈あいかわらず〉ではなくて、強調の〈も〉が入ってきてることが、何かしらの作用をもたらしてるように思うんだけど。なんなんだろう。

あー、そういえば〈コンビニへ〉*2の歌で、「なんども、新鮮なまなざしをもってあなたを見る」主体がでてきたじゃない? そういう感じがしない? 〈あいかわらず〉だと「いつもいつも」とか「いつ見たって」のニュアンスなんだけど、〈も〉があることで感心している空気があると思う。「やっぱ、あしゆびながいよなあ」って。

《う》うーん。〈あいもかわらず〉は、変わらないことそのものが強調されているのかなと思って。

君、組んでる足、サンダルときて、〈サンダルが落ちそう〉ってはじめて運動がクローズアップされるんだけど、主体の興味の対象は〈あしゆび〉にとどまる。その主体の関心のあり方を〈あいもかわらず〉という語が引き受けている感じがする。

あと、〈落ちそう〉→〈あいもかわらず〉という続き方は、動きに停滞感をもたらしている効果があるように個人的には思えるので、新鮮さよりぼんやり見ているときの視界をイメージしてる、かな。

17. 前髪を

前髪をつくってみるかな そういえば今年はすいかを食べそびれたな *3 

〔の〕この歌は〈今年はすいかを食べそびれたな〉というところから、なんとなく淡いエモさを感じました。

《う》へー。私は『エモい』という語がどんなときに使われるかをあまり理解してないんだけど、ちえこさんのいう『エモさ』ってどういうこと?

〔の〕うーん。私が思う『エモさ』はですね。この歌だと〈今年はすいかを食べそびれたな〉っていう「回想」がエモさを帯びてるように思ったんだよね。

《う》つまり、郷愁のような、過去への思慕に似ているけど、もっとライトで日常性を帯びたもの?

〔の〕そうね、私はわりとそう捉えてる。『エモさ』にも濃度があって、気持ちを強く喚起するものもあれば、うっすらただよってくるものもある。やわらかな口調の文体と、過去への気持ちの立ち上げ方から、この歌はどっちかというと淡く感じた。

歌を読んでいくと、時間の流れが見てとれるじゃない? まず初句二句では未来にむかう発話がある。現在の主体は前髪作ってないから、「やってみようかな」という気分の転換が語られる。その未来に向かう転換から、過去の思い返しが発生したところが面白いなと思った。

さらに見ていくと、思い返されている食べそびれた〈すいか〉とこれから作ろうかと思ってる〈前髪〉には、直接的なつながりはないじゃない?
でもこういう、〈そういえば〉で結ばれる思考の飛躍の動きってよくあるものだとは思うのね。それがこの歌においては、「あ、そこに飛ぶんだ」ってくらい飛躍の距離感が印象的だった。

それからすいかを食べそびれたことについて、「できなかった、くやしい」ってなるほどの熱量は主体にない。「今気づいたけど、食べそびれちゃってたなあ」っていう淡さが読者もすんなり気持ちに移入できる感じがある。あと「今年〇〇しなかったなあ」っていうとき、〇〇に当てはまるものって結構季節ものが多いような気がする。〈すいか〉もだいたい夏に食べるものだし。

《う》少し飛躍があっても、すいかって誰もが食べたことあるものだから、気持ちは乗せやすいよね。

〔の〕で、毎年夏といえばスイカぐらいの認識があるから、毎年欠かさずスイカ食べてるような認識だったのに、でも気づけば食べてなくて、「夏=スイカ」の先入観が強すぎるからこそ食べてないことを忘れてた、ようにも読める。そういう記憶が薄く層状に引き出されるような感覚が、淡さにつながってるのかな。あとすいかの水っぽさとか。

《う》層状の記憶の引き出し方ってたしかにそうだね。

ちょっと〈前髪〉に戻るんだけど、髪の毛って伸びるものだから、それ自体が視覚化された時間の蓄積と思うんだよね。だから、〈作ってみるかな〉と変化の兆しが語られたとき、具体的な長さはわからなくても前髪を意識する程度の時間経過を読者はそれぞれに意識する。

そこに、そういえば〈すいかを食べそびれた〉という述懐がくるから、ひとつの季節を終えるくらいの時間の長さに、心理的変化が重なってくると思って。

18.車窓から

車窓から乗り出し顔のながい犬がみてるガスタンクはうすみどり *4 

〔の〕まず私はこの歌を「車窓から顔を出している犬の顔が長くて、かつその犬が見ているガスタンクがうすみどり色をしていた」と読みました。主体が向ける犬への視線から、ガスタンク、ガスタンクの色へと移り変わるなめらかさが面白いなあと思って。車で並走するときに感じる一定のスピードを保ったまま、視点が流れのままに展開する感覚があります。

あとこの歌から一種の不思議さを感じてたんだよね。それがなにか気になってたんだけど、わかった。
上の句で展開されている〈車窓から〉〜〈ながい犬〉までの視点って、主体のものじゃない?
それが〈みてる〉という語によって犬の視点に切り替わっちゃう。だから読者が見る光景も一気に変わるはずなんだけど、その切り替えがとてもスムーズで、ブレーキをかけることなく展開されてくんだよね。

《う》それすごくよくわかる。なんかこの歌の構造ねじれてるって思ってたんだけど、そこだ。最初は自分の視覚を通して見ることができるものが描かれてるんだけど、そこから先は犬の目を通して見ることができるものが描かれてるね。だから、つい私は犬の眼の色もうすみどりであるかのように思ったな。

〔の〕歌の雰囲気がたんたんとしてる・感情が濃く出ているわけではないのにもかかわらず、すごく印象に残ったのがなぜかわからなくて、この場でこの歌の面白さに迫れてよかった。

19.ヘリポート

ヘリポートのオレンジ色の吹き流し 吹き流すやわらかなファック・ユー *5 

〔の〕オレンジという語もだけど、ヘリポートもほかの歌*6に出てくるんだよね。

わたし、この下の句があんまり景として読めてなくて。初読は一字空けのことを考えずに、〈吹き流し(を)吹き流す〉/〈(そして)吹き流す(ようにして)ファック・ユー(と言った)〉だと思ったんだけど、一字空けしてたら吹き流しは吹き流すにかかっていかないよね。そしたら下の句をどうとろうかと思ってる。

《う》この歌って、言葉の操作によって展開される歌じゃない? 〈吹き流し〉は帯状の、風に吹かれてひらひらするやつで、名詞よね。それが〈吹き流す〉で動詞に転換される。そのときに、とくに意味もなく、ただ音が口から流れ出すような感じで、〈ファック・ユー〉という言葉が出てくる。それが面白いと思った。

〔の〕うんうん。この〈やわらかなファック・ユー〉なんだけど、とても日本語的に「ファックユー」って発音されてると思うのね。なんでかと言うと英語のFの音って勢いのある摩擦音*7で強く聞こえる。それに対して日本語のファの音は空気が少しぬけた感じ*8

もちろん〈ファック・ユー〉の前には〈やわらかな〉という形容があるけれど、意味だけを見れば" Fuck you. " はかなり強烈なはず。でも下の句がひとつのフレーズとして、一体となってやわらかく流れるように〈ファック・ユー〉を存在させてるよね。結果として上の句の吹き流しの景色から入って、そのままファックユーまで自然と流れ着いている。

《う》「日本語的な発音」ってところ、私も同意。〈ファック・ユー〉ってナカグロ*9が挟まれてるじゃない。だから「ファッキュー」じゃなくて、「ファック」「ユー」って一文字一文字発音されてる。その感じが日本語の特色である子音+母音の構成、一文字一拍を思い起こさせるよ。

〔の〕この同意を得られたのはとてもうれしい......!

《う》なんだろう、「ファックユー」という言葉が更新される感覚があるよね。スラングとして言い捨てられることが多いこの言葉が、たしかに歌のなかでも吹き流すことで消えてゆく感覚をともなってるんだけど、新たな響きをもって立ち上がるよね。

〔の〕〈ファック・ユー〉って言うにもかかわらずこの語義の強いイメージを連想させることもなく、〈吹き流す〉も流れていくんだけど、ただ右から左へ通過させて終わりということもなくて。そういう言葉の活かし方も面白い。言葉の歌なんだけど、言葉の連関だけで構成されてないというか。

意味は確定できないけど、とにかく口にすると落ち着く歌だなあ。

《う》この句跨りの感じもいいよね。個人的には、〈吹き流すやわらかな/ファックユー〉ってパワーワードでクライマックスを作るようにいうより、〈吹き流すやわら/かなファックユー〉って山なりにゆるやかに声に出したくなる。いやなことがあったときの呪文にしたい。

20.生きている

〔の〕では、いよいよ最後です!

生きていることはべつにまぐれでいい 七月 まぐれの君に会いたい *10 

《う》いいよね〜〜!

〔の〕このよさなんだけど、「わたしのなかでなにがよかったんだろう」というところから始めたいなと思っています。

まず一首通して読むと、歌には〈君に会いたい〉という希求があって、それも〈まぐれの君〉に会いたいという希求です。じゃあ上の句ではなにを言ってるかというと〈生きていることはべつにまぐれでいい〉。

よくJ-Popだと「今ここに生きていることの奇跡」とか「君に出会えることの奇跡」が歌われてたりするじゃない。そういう奇跡を肯定しにいってるわけじゃなくて、生きてること自体はまぐれでいいのだと。でも〈まぐれの君に会いたい〉というところから、一首のうちに「肯定」のニュアンスがたしかに立ち上がってくる。すごいんだけど、この作用って一体どういうこと??

《う》上の句の、〈でいい〉という言い方には、いくつかの選択肢から消極的にひとつを選ぶ含みがあるじゃない。私は〈まぐれ〉という語が暗に退けた選択肢としてまず「必然」を想定した。

それで、上の句には「生きている」という事実について、必然によって解釈して肯定しにいくことを半ば拒否する態度があると思ったんだよね。

しかも〈べつに〜でいい〉だからまぐれや偶然性を称揚しているわけでもない。奇跡をよろこぶのともまた違う。この態度や距離の置き方が、逆説的に、生きていることをそれだけで肯定しにいく感じがある。

〔の〕そうそれ、めっちゃそう思う。

《う》〈べつに〉ってちょっと斜に構えてるでしょ。そんな屈折から入るんだけど、〈まぐれの君〉って指定してくるところはすごくよさだよね。

〔の〕うん、いま言われたみたいに上の句の表現に屈折を感じるんだけど、〈七月〉という夏の季節をはさんでから純粋に希求する感じがいい。屈折から希求へ向かう、主体のこの心の動きの運動に惹かれる。

《う》そう、斜に構えた人が「会いたい」って気持ちを強く押し出してくるところはグッとくる。

〔の〕あと主体は〈君〉の生き方が「まぐれな生き方」かどうかは全然問題にしてないと思うのね。主体が見出している「まぐれ性」をもつ〈君〉に会いたいんじゃないかなとも思った。

そのまぐれ性をもっているかのような〈まぐれの君〉が、じゃあいったいどういう人なのかが定かにはならない。これがこの歌の読みの難しさでもあるんだけど。でも会いたさにいくまでの一首の流れがいいなって思う。

《う》そうそう。まぐれ性ね。この〈まぐれの君〉の〈の〉がすごく効果的だと思ってて。 たとえば、〈まぐれで君に〉だったらよさが出てこないよ。

〔の〕あー、ここは〈の〉ですね。〈の〉じゃないとだめです!

《う》仮に〈まぐれで〉だと、まぐれという条件の下に会いたいってことになっちゃうもんね。でも、〈まぐれの〉は、〈まぐれ〉であることが文の修飾の上でも存在論的にも〈君〉に直接にかかってくるよね。

それを上の句と照らし合わせると、〈会いたい〉は主体の願望ではなくて、君が生きていることそのものを希求している意味合いになると思う。説明がすっきりしないけど。

韻律の話になるけど、さし挟まれた〈七月〉も、口に出すと「ちがつ」って頭高のアクセントになるじゃない? そのときに音のトーンが一音ぐらい高くなる感覚があって、音読するとそこで歌のテンションもあがるような感じがする。

で、〈まぐれの〉というところでわずかにトーンダウンするんだけど、そこの機微がすごく好きです。
これが仮に「八月」だったとしても、夏ではあるんだけど「七月」ほどするどく切り込んでくる感じはなくて不足。

〔の〕その観点はすごく魅力的だと思いました(笑)

実はこの〈七月〉という語を見て、いっしゅん七夕のことが頭をよぎったんだけど、でもそれはこの歌を読む下敷きにはしたくないな。歌の芯を外した読みになる気がして。

《う》そっか、そういうストーリーを援用して読む人もいるかもしれないね。

〔の〕この歌は励まされるというか、パワーをわけてもらったというか、歌に流れるエネルギーに思わず染められる高揚感があるよね。

これをもちまして

以上、のつ20首選でした。次からは漆原20首選に移ります。
引き続きよろしくお願いいたします!

*1:P.179

*2:その2でとりあげています

*3:P.187

*4:P.201

*5:P.227

*6:P.83 見下ろせば春はまるくて屋上にヘリポートのあるビルも見えるよ

*7:無声唇歯摩擦音。詳細→無声唇歯摩擦音 - Wikipedia

*8:無声両唇摩擦音 - Wikipedia

*9:・←この記号のこと

*10:P.231