第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(2)To.ちえこさま
のつ ちえこ さま
いま、雷鳴と一緒に降り出した雨のせいで喫茶店から出られなくなってしまいました。ひどい雨の夜。夏だけじゃなく秋だって驟雨で驚かしにかかっているみたい。
でも、雨の夜は窓の外の雨がひどければひどいほどおだやかな心持ちになれるから、わたしは雨女なのかもしれないな。
前回はちえこさんの「口ずさみたくなる短歌」を紹介してもらったから、こんどは、わたしから愛誦歌を紹介するね。
歌意:じっと見つめながら、ただ仕事場に座っている。座っている前には、胡粉の塵が降り積もって層をなしている。
いったい、どれだけ長い間目を凝らして仕事をしていたのだろう。シジフォスの神話をふと思ってみる。
時間が粉になっていくような虚しさもありながら、「なり」という断定の力強さに現実の手応えがある骨太の職業詠。
1.あまりにも音楽的な、音楽的な。
この歌の音韻を見てみると、
Meni mamori tadani irunari shigotobani
と、上の句は「に」と「り」*1の音が交互に繰り返され、母音レベルではi音の脚韻で統べられていることがわかる。
このリズミカルでスムーズな流れから、4句目では
tamaru gofun
とu音・n音のくもった音の連続によって脚韻は崩されて、
no shiroki chiri no
i音の連続と「の」の繰り返しによってリズミカルさを取り戻す。
このとき結句は8音だから、わずかに早口で読むことになるんだけど、
s/c/k音は無声化による加速感を得て、最後は
kasa
と、a音の明るい音の連続で音韻的なカタルシスを迎える。
2.ジャズはお好き?
ちえこさん、唐突だけど、ジャズはお好き?
ジャズの演奏は簡略に言うと
テーマ(メロディ)→アドリブ(メロディを崩して演奏)→テーマ→締め
という流れ*2で進むんだけど、
この歌のつくりも
i音の脚韻→脚韻をくずす→i音の脚韻→a音
という構造で、ジャズの演奏がメロディの変奏を解決に導くように音韻の変奏を解決していくような音楽的な感覚があるように思えるんだ(強引!)。
この韻律の整え方と崩し方のバランスによって、「口ずさみたく」なってしまうんだよね。
3. 音が読解にもたらす影響
ここで、脚韻を崩しが短歌の読解にもたらす効果を考えてみたい。
この歌から析出される文は次の2文。
①目にまもりただに坐るなり
②仕事場にたまる胡粉の白き塵の層
「なり」と言い切っているから2句切れで、これが文法上の切れ。
だけど「仕事場に」は「坐る」を修飾していて倒置とみることができるから、次のようにも分けることができる。
①目にまもりただに坐るなり、仕事場に→動作主:作中主体
②仕事場にたまる胡粉の白き塵の層→動作主:塵の層
上の句と下の句のそれぞれの動詞の動作主は、3句目以前は作中主体、それ以降は塵の層と変化する。
つまり、3句目は文の「継ぎ目」であり、それぞれ違う主語を持つ文をつなぎ合わせる機能を果たしている。
だから4句目の脚韻の崩しは、上から下へと文が続いていく短歌の詩形のなかにコンテクスト*3の重ねあわせがあり、これから異質な文が始まるのだ、という音声的な合図になっているんじゃないかな。
実際に音読してみてほしいんだけど
目にまもりただに坐るなり、仕事場に たまる胡粉の白き塵の層
というように、句切れではなく脚韻の流れに沿って読むのがしっくりくると思うんだ。
宮柊二の短歌=素朴、実直
みたいな印象を持っている人が多いと思うんだけど、細かく読むと白秋*4ゆずりのモダンで緻密な韻律感覚が浮かび上がるね。
漆原 涼
追伸。こんな話をしていたら、福岡ポエトリー*5に行きたくてたまらなくなりました。こんど、一緒にことばの雨に打たれよう。