カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その7

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

4.まず頬が

まず頬が朝にふれたらまばたきを ねんのためもう二回まばたき*1

《う》なんて言おうかな。 世界、という語の大きさに戸惑いながら話すんだけど、世界……つまり自分をとりまくものの感受の仕方が、この歌で歌われている。他の人がどういう仕方で世界を受容しているのか、なんて言葉にならないとわからないことだよね。
この主体の場合は、〈まず頬が〉だから、皮膚感覚から受け取るんだね。「朝にふれる」ということで、朝という語が、時間的な意味だけではなく、大気や朝日や温度をまとった浮遊物として立ち上がってくる。そこに、よろこびがある。
日常生活をしていると、朝なんていやでもくるもの、と慣らされてしまうじゃない? でも、こういう風に歌になっていることで、朝を新鮮に受け取る態度を味わうことができる。それで、うれしくなる。

〔の〕その、うれしさや、よろこびの度合いはどれくらい?

《う》というと?

〔の〕主体はどのくらいよろこんでる? たとえば、〈朝がくるだけでうれしい〉とか、あるじゃない。

《う》うーん、この歌を読んで、読者として私自身がうれしくなるんだよね。でもこの主体がよろこんでいるのかどうかはわからないな。触れあうほど近くにあるものでさえ当然のものとせず、注意深く確かめようとしている主体の姿勢を、私は歌から読んでいるのよね。
歌にあるのは確認の手順だけだから、主体の感情はこのあとにやって来るものじゃないかな。

〔の〕なるほどそういうことか。私も、おそるおそるじゃないんだけど、やっぱりちょっと確認というところを読んでいる。朝が来て、というか、頬に朝がふれるだからまず質感があって、それからまばたきをしたと。そのことで、恐怖とかのそれではなく、おそるおそる確かめている。どうやら朝っぽいぞ、というところから慎重に、注意深く。
宇都宮さんの歌はよく見ていたりするから、対象をどれくらい見るか、とかの注意深さである、と。
そこが掴めてくると、なるほど面白いぞってなった。私はスルー気味の歌だったから。

《う》〈ねんのため〉がひらいてあるじゃない? だから、警戒心までの過敏さにはいかなくて。

〔の〕そう、警戒って感じでもない。でも、確認はする。

《う》それで、〈まばたき〉は視覚もあるんだけど、最初に触覚から入ってるから、これもまぶたと眼球にくるんだよね。
で、身体の表層でふれていた朝を、今度は光として内部に取り込む。朝の大気のなかで、三度まつげが舞うというか……上下する……

〔の〕しばたく。

《う》そうそう、しばたく。動きが蝶みたいで、映像としても良い。

5.君は僕の

君は僕のとなりで僕に関係ないことで泣く いいにおいをさせて *2

《う》歌意としては明快なほうだよね。この歌を一読して、となりにいるのにもかかわらず、こんなにも君が遠いのか、と思った。その感慨をくれたことが、私にとってこの歌のすべてといってもいい。
僕の方も、となりで君が泣くのに、自分のせいではないかと過敏になったりはせず、僕の関心はにおいのほうに続いていて、しかもちょっといい感じに受け取っている。マイペースとも言えるかもしれない。
そして〈関係ない〉の字足らずになる助詞抜きのリズムからは、自他をきっぱりと線引きしている印象を受ける。
これこそ、他者の受容の仕方がフラットだと思った。泣いていても〈いいにおい〉だから、状況にネガティブな判断はない。
どんなに近くにいても僕には関与できない君の精神活動があり、僕のほうもそうだという、そのまなざしのあり方に、私は共感するな。

〔の〕そうね。この〈いいにおい〉という、感触のよいものがくることによって、歌のもっているものをネガティブな方向からは反らす効果があるんだな、というのがひとつ。
で、今「こんなにも遠い」ってことを言ってくれたところ。「物理的にとなりにいるのに泣いている」遠さもあるけど、かつ〈いいにおいをさせて〉ってにおいが自分の中に入ってくるじゃない。だから「入ってくるにもかかわらず、関係のないことで泣く遠さ」。君は物理的には近いんだけど、主体の遠さへの思いの馳せ方にフォーカスされていくから、フラットさといえばフラットさなんだけど、そうプラスでもないしマイナスでもない。ちょっとした揺れ……ちょっとさざめき立つというか、水面が揺れているような内面を主体は絶妙に感知しているな、と。

《う》うんうん。〈いいにおいをさせて〉って、付帯する状況だから、ここになにを切り取ってくるかによってそれぞれの個性が出てくると思うんだよね。この主体にとっては、涙もにおいも出力される仕組みがわからないものだし、そのおおもとになる君はもっとわからないものなんだろう。
君という心があってその周りに身体があって、さらに外に汗とか涙とかにおいとかアウラみたいなものがあって、その一番外側から順に感じとっている。ここに個性があると思ったねー。

〔の〕うん、そうね。

《う》というところで次に行くね。次も歌意は入って来やすいと思う。

6.左手で

左手でリズムをとってる君のなか僕にきけない歌がながれる *3

《う》リズムをとっている君の姿から、聴こえないけど、なにか歌(音楽)を感受している。
君の身体からみえるリズムは共有できるけれども、心のなかの歌は聴こえないから、それがどんなものかはわからない。〈ながれる〉ことがわかるだけ。君と僕は隔たてられている。
でも、その隔たりは、リズムを介してうっすらと繋がっているものだから、完全な断絶ではないんだよね。
このとき、〈きけない〉を不全と捉える読者もいるのかもしれないけど、私はそうは読んでいないです。

〔の〕うわーこれ、いますごい良い歌だなってなってる。いますごい感動してる。
最初、イヤフォンをしてるのかな、と思ったんだけど、してなくてもいいな。リズムを取るってことは、何かしらの音楽の想定がある。そこまでは主体にわかる、しかしそれがどんなものか確定することはできない、と。確定できないんだけれども、それが辛いとかではなくて、君には君の流れるものがある、と。
そこは、「隔たっているんだけども、それはさびしさとかではなく、音楽が違う方法で流れている」ということが伝わってくる、というつながり方をしている。……というところが巧みに伝わってくる。
それから〈リズムをとってる君〉の感じとかも好き。私も無意識のうちに、頭の中に流れてる音楽とかでリズム取るとかしちゃう人だから。そういうことするとね、結構たしなめられるのよ。私の場合は踊りだすとかしちゃうからなんだけど。ふふ。

《う》他人の左手の規則的な動きを見て、それがなんらかの歌だという判断に至るまでには、その時点で見ている人もリズムにのってないとできないと思うのよ。ある程度は。
〈リズムをとってる〉と言っていることに、君に寄り添うまなざしがあると思う。

〈の〉あ、〈ながれる〉で思ったんだけど、「君のなかにながれる」と「僕に(きけないけど)ながれる」って取れるね。ここ、二層になってる。

《う》ここすごい。文の上では、君と僕のあいだにおなじ〈歌〉という語がながれるね。それをいつのまにか読まされていたから不全感は感じなかったのかな。
しかも〈君のなか〉って言い方は内と外を意識させる言い方で、人間の身体の内側には血液とか流れるものがあるから、〈歌〉っていう抽象的なものがより動的なものになるように思うね。

〔の〕そうねえ、すごい……すごいねえ、急になんか、歌がいきいきしてきた……。※よろこびを噛みしめるのつ※

《う》ほんと? それは二人で話せてよかった。引用し甲斐がある。※よろこびが伝染している漆原※


7.腰のところで

《う》次の歌も君が出てきます。

腰のところで君は手をふる ちいさく さよならをするのとおんなじように *4

《う》こう、ちいさくばいばい、ってしてる。※実際に手を振ってみる漆原※
宇都宮さんは、こういう日常的で、いつのまにか忘れてしまいそうな、さりげないしぐさを印象深く切り出してくる名手だと思うのよ。マフラーの歌といい。

〔の〕ふふふふふ。※ほほえむのつ※

《う》会ったときに主体を見つけた君が、「おーい」とかっていう風に、わかりやすく手をふるんじゃなくて、ひかえめに〈ちいさく〉手を振る。それも〈さよならをするのとおんなじよう〉にだから、別れ際と同じように手を振る。
君と会った瞬間から、別れの瞬間が主体の胸を掠めるものとしてある。そこが、読んでいて響いたところ。
君が手をふる動作がちいさくても主体は気付くことができて、通いあう瞬間なのに、もう途切れることを思ってる。このまなざしのあり方。

〔の〕なんかさ、私、〈手をふる〉の後、〈さよならをするのとおんなじように〉の何をするんだろう? って思ってた。

《う》あ、完全に言い しでとった?

〔の〕そうそう、言い止しで見た。だから、これに並ぶのはなんだろう、ってことばかりに気を取られて。
それまでの、〈腰のところ〉とか〈ちいさく〉手をふることのディティールの良さはすごく取れてたんだけど、それから先で何が言いたいのか取りきれてないという私の思いが先に立っちゃって。
だけどこれが挨拶で、「別れのときも出会いのときも同じように手をふる」という補助があると、この場面がぐっとよくなる。かつ、君が一貫しているというか、行為する君のブレなさを主体が受け止めているというのもわかる。

《う》そうだね。何度も会ったり別れたりしているよね。君の手の振り方はそういうものだという言い方。この現在形からも習慣性を受け取ってる。
で、どうして「さよならをするのとおなじように手をふる」と解釈したかというと、〈ちいさく〉が差し挟まれていたから。
前後に字空きで、どちらかにかかるのではなくてどちらにもかかるように配置してある。だから〈手をふる〉ことが〈ちいさく〉で、〈さよならをする〉ことも〈ちいさく〉。ということは、最初の文に帰って来たらいいんだな、ってなった。

〔の〕こういう手のふり方をする君がどういう人なのか、とかは読んだりした? あと君の心情とか。

《う》そこは読まなかった。下の句にある主体の観察が印象的で、読者としては、主体の「他者との対峙のあり方」のほうに関心が向いちゃった。

〔の〕そっかそっか。っていうのも、手のふり方ってその人っぽさが出ると思うのよ。めっちゃでっかくふってくれる人もいれば、ちょっと小さくふる人もいるのよ。そういうところにその人の印象みたいなものが出るなあ、と思っていて。

《う》君〈は〉だから、主体が(たくさん出会ってきた人のなかでは)君はそういう手のふり方をする、みたいな読み方ができるということかな。
うーん、そうね、この〈君〉は、僕と対になる〈君〉で、とても固有性がある〈君は〉である気がしている。「会う」場面だから、かな。

〔の〕なんかその、私が下の句があまり読めていなかったこともあって、君の方にフォーカスが行ったのよね。

《う》あっ、そういうことか。君の描写から君の内面を読みたくなる読者もいるよね。

〔の〕手を〈ちいさく〉といったときに、君の控えめな感じなのか、いつもはそうではないがこのときは小さかったとか考えたんだけど、でもさよならが後にくるから、さよならするのとおなじように出会いがという読み方をすると、君がこのときだけそうしたということではなく、いつもそのように手を振っているいうところが見えてくる。

《う》なるほど。ちょっとした待ち合わせとか日常的な場面と思うんだけど、手を振って会った瞬間って感情が動くじゃない。この歌には、気がついた瞬間のよろこびがあって、しぐさがかわいくて、それでいて別れの切なさまであって、でもまた会える安心感もどことなくあって、なんと重層的、なんとよくばりな描写なんだろうか! と思っちゃう。

〔の〕ふふふふふふ。やっぱり私も切なさは感じとってる。

《う》そうだ。今日、偶然電車の中で、腰のところでばいばいって別れの挨拶をしている人を見たんだよね。この歌を読んでいなかったらそんなに気に留めなかったかもしれない。かわいかった……。

〔の〕〈腰のところ〉だから周りに気を使ったり、控えめなんだけど、ずっと近くで接続していたものが切れる瞬間の意識、もしくはその反対の接続していく瞬間の意識があって、〈ちいさく〉てもたしかに挨拶はする。そういうところ、いいよね。

《う》私は〈君〉については立ち入らなかったけど、〈君〉の内面を読みにいくと、さらに主体の切なさが思われて胸がぎゅってなる。

*1:p37

*2:p147

*3:p61

*4:p19

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その6

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

《う》今回は私、漆原の20首選です。「歌集を読む」上では作品の傾向をバランスよく引いていくのが、作品の軸を歪めないフェアな方法ではないかと思うの。最初はそうしようとしていたのだけども。

〔の〕だけどもだけど。

《う》この歌集は読んでいると心が高揚するし、そういう高揚を人と共有したいという気持ちがおきる作品群なんだよね。とりわけ、ちえこさんと好きな短歌の話をするのは楽しいので……

〔の〕ふ〜!※照れているのつ※

《う》結局、私の「好き」を優先して20首を引いたよ。ふふ。とくに最近巷では音楽配信サービスの影響からかプレイリストを作るのが流行ってるでしょ。

〔の〕うんうん。

《う》なので、これもピクニックのおすすめプレイリスト20曲みたいなイメージです。偏りについてはご了承ください。

〔の〕へき はしょうがない。

《う》そういうことだね。では、まず1首目。

1.かろうじて

かろうじてボックスステップなら踏めるから夕立のすぐにでも行く*1

《う》これを一番最初に見たのは「ねむらない樹vol.1」で発表された「ギブン・ソングス」と題された連作の中だった。贈られた歌、もしくは好きな歌かな、そのタイトルがもたらす音楽という光のなかで読むことに、特別な喜びをおぼえていたのよね。そこで読む、ボックスステップという動作がよくて。今回、歌集では編み直されていたから、ちょっとさみしかったところでもある。

〔の〕今言ってくれた「音楽の光の感じ」、というのは前の連作を読んでいて感じたこと?

《う》今の、光というのは比喩として言った。ギブン・ソングというタイトルが添えられたときに一首一首を照らし出すものがあると思うの。夕立には音響があって音楽性も感じられるし、ソングというタイトルを添えられると、より意識する。

〔の〕おー、なるほど。

《う》この歌集では「この星の夜」という連作になっていて、それはそれで一首ごとに座標軸を与えてくれるようなところがあるんだけど。ごめん、いきなり枝葉の話から入っちゃった。

〔の〕この歌の中で、自分に響いたポイントってどこ?

《う》順にいくね。まず〈かろうじて〉という入り方! 「Aはできないが、かろうじてBはできる」といった風に、なにか対照にされるものが前提にあって使うことが多いと思うんだけど、いきなり〈かろうじて〉と入ってきて、なんだろうと歌の世界に引き込まれる。その後、さらに〈ボックスステップ〉という語に意表をつかれつつ字余りに翻弄されつつ、ひとまず〈踏めるから〉と来るから、この作品における掴みどころというか、論理展開を予感しながら読んでいくと……

〔の〕〈から〉で接続すると、三句目の内容が理由にあたるのかなって思うよね。

《う》そう。でも〈夕立の〉という場面を規定してくれる語が出ても、後続は〈すぐにでも行く〉。全然論理では回収できない次元から、はやる気持ちが出てくる。……もう、この展開に読んでいてどきどきしてしまう。
で、この〈すぐにでも行く〉という気持ちをどう読むのかとなったときに、2句目が鍵で、はやっていても焦りではなく弾むような気持ちということが〈ボックスステップ〉という語から立ち上がってくると思うんだよね。

〔の〕あー、私もこの〈ボックスステップなら踏めるから〉をどう取るといいのか考えてた。わたし昔ダンスをやってたんだけど、基本的にボックスステップってこういう動きじゃない。
※右手人差し指と中指を交互に動かしてステップを模した動きをするのつ※

《う》うんうんうんうん!
※動きにうなずく漆原※

〔の〕・《う》 基本的に進まない!!!
※笑い出すふたり※

〔の〕そうそう。だから、動いてはいるがその場にとどまっている。前にはいかない。けど、そういう状況でも〈かろうじて〉このステップなら踏めるってきたところで、〈すぐにでも行く〉という決意、心の飛び出し方が表現されるのがすごく特徴的だなと感じた。そこに、この歌集評通して何回も言ってるんだけど、びっくりするというか、いきなり裏切ってくるこの感じに驚きがある。

《う》心の飛び出し方! ほんとそう。

〔の〕それで、〈かろうじて〉はさっき言ってたみたいに説明的というか、なにか前提があって導入される接続詞だよね。でもここでは、なにかしらの論理が展開されるのではなくて、心情が展開されることが面白いなあと思う。

《う》だねー。そうそう、それとね、さっき実演してくれたボックスステップの動き。それが、夕立が路面に跳ねている様子ともどこか重なりあう。直接には描写していなくても、語の相互作用によって光景を立ち上げてくるところが巧みだと思う。

それから、韻律もとても効果的。ボックスステップって8音だし、発音上も引っかかりがあるからそこで停滞するじゃない。切り方も定型に寄せるか意味のかたまりに寄せるかでリズムが揺れる。でも、文としてはまだ切れないまだ切れない、ってぐんぐん結句にむかっていく。そこで、読んでいる側も昂ぶってくる。

〔の〕なるほど。わたし、〈夕立の〉の「の」には「夕立が止んだら」っていう省略があると思っていて、だから、上がったら〈すぐにでも行く〉ということだと読んでいたのよ。その、動こうとしてすぐには行かない感じから、「の」でぎゅっと凝縮してタメて、〈踏めるからすぐにでも〉って出発の感じがくるのはかなり心情に結びつけられると思う。

《う》そう! この歌は意外性のある語彙と短歌的な語法を使ってるんだよね。特にこの「の」はとても短歌的な、ファジーな「の」だね。いろんな語と連関しうるかかり方で文が続いている。私は、「(他のダンスは無理でも)ボックスステップなら踏める、そのような夕立のさなかすぐにでも」という解釈もありうると思ってる。ひとつに定めようがないけど。

助詞「の」をどう捉えても、〈踏めるから〉と自身の外側に向かっていく手応えを感じている点や、〈すぐにでも行く〉の「にでも」からは、この人の内心で、「すぐ」というべき瞬間が今、今、と迫ってきているのが伝わってくる。

〔の〕うん、「すぐに行く」だったら軽いよね。宇都宮さん、助詞で細かく気持ちを込めてくるのが特徴的だよね。

《う》ね~!!※助詞に萌える漆原※

というところで、次に移ろうかな。私は、宇都宮さんの歌のなかにある都市のにおいが好きで。こんな歌です。

2.歩きつかれた

歩きつかれた平たい夜にプールくさい君との記憶がひとつあること *2

《う》長いこと君と歩いていた、と。〈平たい夜〉という言い方がポイントで、平たいというのが、まず地形としてなだらか・平坦ということを読者としては想像するし、また一方で、平穏な夜、特別なことはなにもない日常性も想像する。それに字面からは、平日という印象も喚起し得る。たっぷりとイメージを含んだ、詩的な語の使い方だと思う。

それで、そのあとに〈プールくさい君との記憶〉と続くことで、地図上の道みたいに平面的だった夜が、水深……空間的広がりを持ちはじめる。その空間性をおびたものが、さらに〈記憶〉という、過去にむかう時間的広がりを持ったものへと受け渡されて行く。このイメージの受け渡し方が、読んでいて魅力的だと思う。

それと、夜という語。ざっくりと〈夜〉という語がくると私の場合はまず闇を想像するんだけど、ここでは直接の修飾関係になくても〈プールくさい〉が響いてくるから、透きとおった闇を想像させられるんだよね。

〔の〕へえ~!

《う》〈君との記憶〉が具体的にどういうものか読者が立ち入ることはできなくても、その装いや質感でもって記憶を共有させてもらえる。

〔の〕なるほどね。〈平たい夜に〉というところ、私は起こる出来事の起伏がそんなにない日々の、ずっと続いていく、感覚として取ってた。

〈歩きつかれた〉というところから、これまでも歩いていて、休憩するわけでもなく、ずっと続いている。ということは、これからも連続していくということが予期されて。その連続性のなかで、激しく動く出来事がないような夜に、なんでもない一種の倦怠感とともに記憶が現れる感覚。

この感覚が、この景色のタイミングで出てくることのリアルさに、ふっと歌の中に入ることができて共感する。わたしはふとした瞬間に記憶が脳裏にあらわれることが多いから、気持ちをこの歌に乗せやすいんだよね。

で、こういう夜に〈プールくさい〉と嗅覚が入ってくることで、質感が増す。

《う》そうそうそうそう、すこしツンとして、湿ってる……!

〔の〕ここで、〈プールくさい君〉なのか〈プールくさい君との記憶〉なのかという修飾の問題があるんだけど、この両者が出てきたときに〈プールくさい君〉が記憶全体にまで広がるという感じで、どこにかかるかというより、「かかりながら広がっていく」感じだと見てる。

記憶があること、が主体にとっての落としどころで。「それがある」ということに、実存というと大げさなんだけど、主体のまなざしや心寄せがあるというように読んでいます。

《う》どちらにかかるかではなくて、かかりながら広がっていくというのは、まったくその通りだと思う。

記憶と嗅覚って、連動しやすいものじゃない。においが身体に入ってきて過去を思い出す現象。語の修飾を読んでいくと、におい→君という実体化を経て記憶になるから、より生の手触りがある記憶として主体の身体に復元されている。

それと、歌は、「記憶がある」以上のことは語ってない。その沈黙がかえって読者を惹きつけるね。

〔の〕必要以上に語っていかないところってあるよね。

《う》語るほど失われるものもあるから、ね。

〔の〕ぺらっとしてしまうよね。

3.それでいて

それでいてシルクのような縦パスが前線にでる 夜明けはちかい*3

《う》縦パス、ということはなんらかの球技の試合を観ている状況と思われる。

〔の〕うーん、サッカー?

《う》私もサッカーを念頭に置いた。ちえこさんの引いていた歌

オーロラの下うごけない砕氷船 とりあえず とりあえず踊っとく? *4

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その1 - カフェオレと方眼紙

にも通じることなんだけど、この主体はコート上にはいないと思ったんだよ。テレビ観戦しているにしろ、スタンドにいるにしろ、縦パスが見通せる状態の俯瞰図でないと〈縦〉という方向感覚にはならないし。

主体は試合には関与していない感じがして、その距離感にこの歌集の気分を感じています。
でね、この比喩が好き。すーっと縦パスがコート上を通っていくなめらかさが〈シルク〉という素材を用いた直喩で表現されていて、映像性が高い。

〔の〕うん、うん。※不思議そうな表情をするのつ※

《う》あ、今言った「映像性が高い」というのは視覚を喚起するだけじゃなくて、直接見ているものではない、ということです。実際の現場で体感するであろう速度よりもずっとゆっくりと言葉が使われているから。上の句をたっぷり使った修飾を経て、縦パスという語が出てくるところとか、〈それでいて〉というなにかを迂回した入り方とか。

〔の〕あ、実はわたし、シルクのような縦パスっていう比喩がどういうことなのか取れてなかったんだよね。

《う》あ、ほんと?

〔の〕うん。縦パスのシュッて駆け抜ける感じと、シルクの艶めきの連関がよくわからなかった。

球状のものがシュッと動くのとシルクのなめらかでつやがある質感。質感からイメージを結びつけてとらえようとしたわたしの読み方だと、どうしても景を浮かべるのが難しかった。

ただ、なめらかにスムーズに通る、しかも優雅な感じで縦パスが通っていく、というところを言われると、ひとつ読みとしてなるほどなと思うところがあって。だから、ここでは比喩がどこまで読めるかっていうのが歌の鍵なのかなあと思う。

《う》うーん、私が、この歌を一読したときに見えたものを言うと、シルクの表面をすべっていく光。その光の動きが縦パスのすーっとした動きとつながっていくと思ったんだよね。

〔の〕あーそれだと、結構省略の表現がある感じだね。〈シルクのような〉というと、シルクという布そのものを想像するんだけど、いま言ってたのはシルクという布を見たときに見えるものじゃない? わたしは、この語句をそのままに読んでいるんだな。この表現自体が一つの比喩だから。

《う》そうだね、縦パスっていうものが動的なものだから、シルクっていう静物とどう結びつけていくか、となったときに、光の動きを見出したんだろうな。

〔の〕ほうほう、なるほど。

《う》えっと、それから、どう言おうかな、結句の〈夜明けはちかい〉。ここまではいわばカメラアイだったんだけど、この独白で、時間帯と知覚している人の存在感が出てくる。

〈ちかい〉けれど目の前にあるわけではない〈夜明け〉。ここで、前の文とは少し位相が変わって言葉がむきだしになっている。

試合を観ていたところから、一字開けを経ることで、夜明けを感受するまで主体の視点が引く。個人的には、球のイメージもあるから……ボールが地球にオーバーラップして俯瞰よりさらに遠くなるイメージ。

なのに、言葉だから、心に直接なにかが近づいてくる感覚があって、読んでいて離人のときみたいなへんな気分になる。

もっと単純に時間の経過を受け取っていいと思うけど。うーん。

〔の〕俯瞰で観ているというのもわかるよ。でもわたしは地球とかまで大きく捉えていなくて、単に〈前線にでる〉の動きが捉えられるぐらいの俯瞰。〈でる〉だから、まだゴールにはいっていないわけよね。もう少しでゴールにたどり着く、その手前。その連関から〈夜明けはちかい〉が引き出されたのかなあというくらいの捉え方をしてる。

《う》そのくらいのイメージの結び方が有機的でいいね。

〔の〕ただこの〈夜明けはちかい〉は、なんらかの含みを持ち得るよね。

《う》うん。2つある文が互いを規定しないからかな。といっても、たとえば日本の夜明け、というときのような象徴までは広がらない。本当に夜が明けるときの〈夜明け〉。

〔の〕そうね、象徴性ではない。で、気になったのは〈それでいて〉。これも接続の言葉だから、なにかがあった上で〈それでいてシルクのような〉とくるのが本来だよね。でもこの〈それでいて〉は時間を引き寄せるというか、そこまで深い意味はなくて、結句の景色に渡していくつなぎの語という感じかな、と思っている。

そうなってくるとやっぱり比喩をどこまで読めるかが鍵なんだな。そこが読めてよかった。


漆原選20首はまだまだはじまったばかり。春爛漫のピクニックはつづくよ。

*1:p219

*2: p75

*3:P119