カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その5

読んでいる歌集

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

あともうすこし、対談のつづき

16. 君の組んでいる

君の組んでいる足からサンダルが落ちそう あいもかわらず長いあしゆび *1 

〔の〕これはわたしにとっては不思議な歌です。まず上の句の光景はすんなり入ってくる。その景からさらに下の句において〈あしゆび〉にまなざしがフォーカスしていく。「素足にサンダル履いてる〈君〉の、あしゆびの長さまでをとらえている」光景って、ともすれば官能的とも言われうるかなと思うんだけど、そういう要素はあまり見えてこなかった。

《う》私もフェティッシュなまなざしはあまり感じられなかった。なぜだか清潔感すらあるように思ったな。

〔の〕わたしがこの歌ですごく気になったのが〈あいもかわらず〉の「も」。〈あいかわらず〉ではなくて、強調の〈も〉が入ってきてることが、何かしらの作用をもたらしてるように思うんだけど。なんなんだろう。

あー、そういえば〈コンビニへ〉*2の歌で、「なんども、新鮮なまなざしをもってあなたを見る」主体がでてきたじゃない? そういう感じがしない? 〈あいかわらず〉だと「いつもいつも」とか「いつ見たって」のニュアンスなんだけど、〈も〉があることで感心している空気があると思う。「やっぱ、あしゆびながいよなあ」って。

《う》うーん。〈あいもかわらず〉は、変わらないことそのものが強調されているのかなと思って。

君、組んでる足、サンダルときて、〈サンダルが落ちそう〉ってはじめて運動がクローズアップされるんだけど、主体の興味の対象は〈あしゆび〉にとどまる。その主体の関心のあり方を〈あいもかわらず〉という語が引き受けている感じがする。

あと、〈落ちそう〉→〈あいもかわらず〉という続き方は、動きに停滞感をもたらしている効果があるように個人的には思えるので、新鮮さよりぼんやり見ているときの視界をイメージしてる、かな。

17. 前髪を

前髪をつくってみるかな そういえば今年はすいかを食べそびれたな *3 

〔の〕この歌は〈今年はすいかを食べそびれたな〉というところから、なんとなく淡いエモさを感じました。

《う》へー。私は『エモい』という語がどんなときに使われるかをあまり理解してないんだけど、ちえこさんのいう『エモさ』ってどういうこと?

〔の〕うーん。私が思う『エモさ』はですね。この歌だと〈今年はすいかを食べそびれたな〉っていう「回想」がエモさを帯びてるように思ったんだよね。

《う》つまり、郷愁のような、過去への思慕に似ているけど、もっとライトで日常性を帯びたもの?

〔の〕そうね、私はわりとそう捉えてる。『エモさ』にも濃度があって、気持ちを強く喚起するものもあれば、うっすらただよってくるものもある。やわらかな口調の文体と、過去への気持ちの立ち上げ方から、この歌はどっちかというと淡く感じた。

歌を読んでいくと、時間の流れが見てとれるじゃない? まず初句二句では未来にむかう発話がある。現在の主体は前髪作ってないから、「やってみようかな」という気分の転換が語られる。その未来に向かう転換から、過去の思い返しが発生したところが面白いなと思った。

さらに見ていくと、思い返されている食べそびれた〈すいか〉とこれから作ろうかと思ってる〈前髪〉には、直接的なつながりはないじゃない?
でもこういう、〈そういえば〉で結ばれる思考の飛躍の動きってよくあるものだとは思うのね。それがこの歌においては、「あ、そこに飛ぶんだ」ってくらい飛躍の距離感が印象的だった。

それからすいかを食べそびれたことについて、「できなかった、くやしい」ってなるほどの熱量は主体にない。「今気づいたけど、食べそびれちゃってたなあ」っていう淡さが読者もすんなり気持ちに移入できる感じがある。あと「今年〇〇しなかったなあ」っていうとき、〇〇に当てはまるものって結構季節ものが多いような気がする。〈すいか〉もだいたい夏に食べるものだし。

《う》少し飛躍があっても、すいかって誰もが食べたことあるものだから、気持ちは乗せやすいよね。

〔の〕で、毎年夏といえばスイカぐらいの認識があるから、毎年欠かさずスイカ食べてるような認識だったのに、でも気づけば食べてなくて、「夏=スイカ」の先入観が強すぎるからこそ食べてないことを忘れてた、ようにも読める。そういう記憶が薄く層状に引き出されるような感覚が、淡さにつながってるのかな。あとすいかの水っぽさとか。

《う》層状の記憶の引き出し方ってたしかにそうだね。

ちょっと〈前髪〉に戻るんだけど、髪の毛って伸びるものだから、それ自体が視覚化された時間の蓄積と思うんだよね。だから、〈作ってみるかな〉と変化の兆しが語られたとき、具体的な長さはわからなくても前髪を意識する程度の時間経過を読者はそれぞれに意識する。

そこに、そういえば〈すいかを食べそびれた〉という述懐がくるから、ひとつの季節を終えるくらいの時間の長さに、心理的変化が重なってくると思って。

18.車窓から

車窓から乗り出し顔のながい犬がみてるガスタンクはうすみどり *4 

〔の〕まず私はこの歌を「車窓から顔を出している犬の顔が長くて、かつその犬が見ているガスタンクがうすみどり色をしていた」と読みました。主体が向ける犬への視線から、ガスタンク、ガスタンクの色へと移り変わるなめらかさが面白いなあと思って。車で並走するときに感じる一定のスピードを保ったまま、視点が流れのままに展開する感覚があります。

あとこの歌から一種の不思議さを感じてたんだよね。それがなにか気になってたんだけど、わかった。
上の句で展開されている〈車窓から〉〜〈ながい犬〉までの視点って、主体のものじゃない?
それが〈みてる〉という語によって犬の視点に切り替わっちゃう。だから読者が見る光景も一気に変わるはずなんだけど、その切り替えがとてもスムーズで、ブレーキをかけることなく展開されてくんだよね。

《う》それすごくよくわかる。なんかこの歌の構造ねじれてるって思ってたんだけど、そこだ。最初は自分の視覚を通して見ることができるものが描かれてるんだけど、そこから先は犬の目を通して見ることができるものが描かれてるね。だから、つい私は犬の眼の色もうすみどりであるかのように思ったな。

〔の〕歌の雰囲気がたんたんとしてる・感情が濃く出ているわけではないのにもかかわらず、すごく印象に残ったのがなぜかわからなくて、この場でこの歌の面白さに迫れてよかった。

19.ヘリポート

ヘリポートのオレンジ色の吹き流し 吹き流すやわらかなファック・ユー *5 

〔の〕オレンジという語もだけど、ヘリポートもほかの歌*6に出てくるんだよね。

わたし、この下の句があんまり景として読めてなくて。初読は一字空けのことを考えずに、〈吹き流し(を)吹き流す〉/〈(そして)吹き流す(ようにして)ファック・ユー(と言った)〉だと思ったんだけど、一字空けしてたら吹き流しは吹き流すにかかっていかないよね。そしたら下の句をどうとろうかと思ってる。

《う》この歌って、言葉の操作によって展開される歌じゃない? 〈吹き流し〉は帯状の、風に吹かれてひらひらするやつで、名詞よね。それが〈吹き流す〉で動詞に転換される。そのときに、とくに意味もなく、ただ音が口から流れ出すような感じで、〈ファック・ユー〉という言葉が出てくる。それが面白いと思った。

〔の〕うんうん。この〈やわらかなファック・ユー〉なんだけど、とても日本語的に「ファックユー」って発音されてると思うのね。なんでかと言うと英語のFの音って勢いのある摩擦音*7で強く聞こえる。それに対して日本語のファの音は空気が少しぬけた感じ*8

もちろん〈ファック・ユー〉の前には〈やわらかな〉という形容があるけれど、意味だけを見れば" Fuck you. " はかなり強烈なはず。でも下の句がひとつのフレーズとして、一体となってやわらかく流れるように〈ファック・ユー〉を存在させてるよね。結果として上の句の吹き流しの景色から入って、そのままファックユーまで自然と流れ着いている。

《う》「日本語的な発音」ってところ、私も同意。〈ファック・ユー〉ってナカグロ*9が挟まれてるじゃない。だから「ファッキュー」じゃなくて、「ファック」「ユー」って一文字一文字発音されてる。その感じが日本語の特色である子音+母音の構成、一文字一拍を思い起こさせるよ。

〔の〕この同意を得られたのはとてもうれしい......!

《う》なんだろう、「ファックユー」という言葉が更新される感覚があるよね。スラングとして言い捨てられることが多いこの言葉が、たしかに歌のなかでも吹き流すことで消えてゆく感覚をともなってるんだけど、新たな響きをもって立ち上がるよね。

〔の〕〈ファック・ユー〉って言うにもかかわらずこの語義の強いイメージを連想させることもなく、〈吹き流す〉も流れていくんだけど、ただ右から左へ通過させて終わりということもなくて。そういう言葉の活かし方も面白い。言葉の歌なんだけど、言葉の連関だけで構成されてないというか。

意味は確定できないけど、とにかく口にすると落ち着く歌だなあ。

《う》この句跨りの感じもいいよね。個人的には、〈吹き流すやわらかな/ファックユー〉ってパワーワードでクライマックスを作るようにいうより、〈吹き流すやわら/かなファックユー〉って山なりにゆるやかに声に出したくなる。いやなことがあったときの呪文にしたい。

20.生きている

〔の〕では、いよいよ最後です!

生きていることはべつにまぐれでいい 七月 まぐれの君に会いたい *10 

《う》いいよね〜〜!

〔の〕このよさなんだけど、「わたしのなかでなにがよかったんだろう」というところから始めたいなと思っています。

まず一首通して読むと、歌には〈君に会いたい〉という希求があって、それも〈まぐれの君〉に会いたいという希求です。じゃあ上の句ではなにを言ってるかというと〈生きていることはべつにまぐれでいい〉。

よくJ-Popだと「今ここに生きていることの奇跡」とか「君に出会えることの奇跡」が歌われてたりするじゃない。そういう奇跡を肯定しにいってるわけじゃなくて、生きてること自体はまぐれでいいのだと。でも〈まぐれの君に会いたい〉というところから、一首のうちに「肯定」のニュアンスがたしかに立ち上がってくる。すごいんだけど、この作用って一体どういうこと??

《う》上の句の、〈でいい〉という言い方には、いくつかの選択肢から消極的にひとつを選ぶ含みがあるじゃない。私は〈まぐれ〉という語が暗に退けた選択肢としてまず「必然」を想定した。

それで、上の句には「生きている」という事実について、必然によって解釈して肯定しにいくことを半ば拒否する態度があると思ったんだよね。

しかも〈べつに〜でいい〉だからまぐれや偶然性を称揚しているわけでもない。奇跡をよろこぶのともまた違う。この態度や距離の置き方が、逆説的に、生きていることをそれだけで肯定しにいく感じがある。

〔の〕そうそれ、めっちゃそう思う。

《う》〈べつに〉ってちょっと斜に構えてるでしょ。そんな屈折から入るんだけど、〈まぐれの君〉って指定してくるところはすごくよさだよね。

〔の〕うん、いま言われたみたいに上の句の表現に屈折を感じるんだけど、〈七月〉という夏の季節をはさんでから純粋に希求する感じがいい。屈折から希求へ向かう、主体のこの心の動きの運動に惹かれる。

《う》そう、斜に構えた人が「会いたい」って気持ちを強く押し出してくるところはグッとくる。

〔の〕あと主体は〈君〉の生き方が「まぐれな生き方」かどうかは全然問題にしてないと思うのね。主体が見出している「まぐれ性」をもつ〈君〉に会いたいんじゃないかなとも思った。

そのまぐれ性をもっているかのような〈まぐれの君〉が、じゃあいったいどういう人なのかが定かにはならない。これがこの歌の読みの難しさでもあるんだけど。でも会いたさにいくまでの一首の流れがいいなって思う。

《う》そうそう。まぐれ性ね。この〈まぐれの君〉の〈の〉がすごく効果的だと思ってて。 たとえば、〈まぐれで君に〉だったらよさが出てこないよ。

〔の〕あー、ここは〈の〉ですね。〈の〉じゃないとだめです!

《う》仮に〈まぐれで〉だと、まぐれという条件の下に会いたいってことになっちゃうもんね。でも、〈まぐれの〉は、〈まぐれ〉であることが文の修飾の上でも存在論的にも〈君〉に直接にかかってくるよね。

それを上の句と照らし合わせると、〈会いたい〉は主体の願望ではなくて、君が生きていることそのものを希求している意味合いになると思う。説明がすっきりしないけど。

韻律の話になるけど、さし挟まれた〈七月〉も、口に出すと「ちがつ」って頭高のアクセントになるじゃない? そのときに音のトーンが一音ぐらい高くなる感覚があって、音読するとそこで歌のテンションもあがるような感じがする。

で、〈まぐれの〉というところでわずかにトーンダウンするんだけど、そこの機微がすごく好きです。
これが仮に「八月」だったとしても、夏ではあるんだけど「七月」ほどするどく切り込んでくる感じはなくて不足。

〔の〕その観点はすごく魅力的だと思いました(笑)

実はこの〈七月〉という語を見て、いっしゅん七夕のことが頭をよぎったんだけど、でもそれはこの歌を読む下敷きにはしたくないな。歌の芯を外した読みになる気がして。

《う》そっか、そういうストーリーを援用して読む人もいるかもしれないね。

〔の〕この歌は励まされるというか、パワーをわけてもらったというか、歌に流れるエネルギーに思わず染められる高揚感があるよね。

これをもちまして

以上、のつ20首選でした。次からは漆原20首選に移ります。
引き続きよろしくお願いいたします!

*1:P.179

*2:その2でとりあげています

*3:P.187

*4:P.201

*5:P.227

*6:P.83 見下ろせば春はまるくて屋上にヘリポートのあるビルも見えるよ

*7:無声唇歯摩擦音。詳細→無声唇歯摩擦音 - Wikipedia

*8:無声両唇摩擦音 - Wikipedia

*9:・←この記号のこと

*10:P.231

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その4

読んでいる歌集

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

対談のつづき、まだまだしゃべるよ

12. 左手の

左手のケータイで撮るぶれぶれの右手に甘がむネコ しもぶくれ *1 

※テンションが急上昇するふたり※

〔の〕これは一読して、「かわいい〜」ってなっちゃった。「しもぶくれかあ」って。たぶん主体も「しもぶくれのネコ可愛い」って思ってる気がするんだけど。
景としては、右手に猫が甘噛みしてきてて、だから左手に持ってるケータイでそれを撮っては見るんだけど、左手だし猫動くしで画像がぶれぶれになっちゃう。

そんで猫は猫で右手噛んでるから、手を咥えたまま口が「あがー」っていうふうに、顔が変形して「しもぶくれ」のような状態になってるんだよね。普通、しもぶくれな猫っていないから、猫にむかって「しもぶくれだなおまえ」って言わないじゃない? (笑)

ということも相まって、ここで一字あけして結句〈しもぶくれ〉って言ってきたから、わたしとてもうれしくなっちゃった。ここにかわいさが一気に集中する。

それでね、〈しもぶくれ〉にくるまですごく冷静に目の前の光景を見てるわけよ。〈左手〉の〈ケータイで撮る〉→〈ぶれぶれ〉な状況→〈右手〉に〈甘がむネコ〉ってていねいにきて、最後〈しもぶくれ〉で、「そこに注目するんだ!」って。結句が全体に返すというか、この初句からだんだん〈甘がむ〉まで焦点がしぼられていくんだけど、

《う》うんうん。噛まれていたらきゅーっとピンポイントに体感がくるはずよね。

〔の〕うん。でも〈しもぶくれ〉でまた景色がふっと引いて噛むところより広く捉えられる。その視点の移動で突然現れた〈しもぶくれ〉という結句にとてもうれしくなってしまった。

《う》なるほどね。でも、この〈ぶれぶれの〉は結構解釈難しくない? 全部ぶれぶれな気がして。

〔の〕どこにかかってくるかってこと? わたしは全体にかかってくる「ぶれぶれ」として読んだかなー。

《う》もちろん、全体にかかってくる効力があるんだけど、それゆえネコとじゃれている外形的な状況が定めにくいし、そもそも外形だけの語なのか……。

〔の〕あー、そうね。初句二句をうけて〈ぶれぶれの〉から〈右手〉に接続していくから、「ぶれぶれの右手」のように読めることもあって、正確に光景を読むことの難しさがあるのは私も思った。ただ状況が想像できることで、読まされてしまう、こういうことだろうなってわかってしまうよね。

《う》景じゃくて状況よね。この状況はテンションも高そうでぶれざるを得ない。
※つい笑うふたり※

《う》あと、これは〈ケータイ〉じゃないとだめだね。スマホだと多少ぶれてもピントがあって被写体が撮れてしまうと思って。携帯カメラの画素の荒さがこの歌の解像度だなー。

〔の〕うんうん。はー、とても楽しい歌でした。

13. ぶん投げた

ぶん投げたオレンジが波間に浮かぶ ベストを尽くすよ ヘイ!ベストをね *2 

※のつ、下の句をなぜか語尾を上げ気味に読む※

〔の〕この歌は、☆マークつけるか迷ったんですよ。下の句が心の支えになってくれるおまじないのようにキャッチーだったこともあって、自分が言葉に引き寄せられすぎている気がしたのね。

でも少し気持ちが凹んだときに、ふっと心に現れて「ベストを尽くすよ ヘイ!ベストをね」って繰り返すと勇気が湧いてくる感じがすごくある。

歌を読んでいったときに、まず〈ぶん投げた〉という大きな動作から入る。そして投げられたものは〈オレンジ〉で、それが〈波間〉に行くことから波だっている海の水面が見えてきた。そこにオレンジが浮かぶのね。
この光景から一字空けを経て、急に下の句の呼びかけに移るので、主体はこのオレンジを取りにいこうとしたのかなと少し思いました。

《う》草野球の掛け声とかで言いそう。「ヘイ!」って。ボールを取りに行くときとか。

〔の〕うん。ただ、この上の句から下の句へ移るときのつながりをどう読むかは、実は難しいことだと思ってて。オレンジが海に浮かんでる景があって、そこに〈ベストを尽くすよ〉〈ヘイ!ベストをね〉と繰り返すように呼びかけていく。

この呼びかけが、何に対してどう働きかけようとしているのか、までを確定させることはできないんだけど、でもこの軽やかさになんだか励まされている自分がいるんだよね。

《う》やっぱり、気持ちが高揚するよね。
〈ヘイ!〉という語彙に、スポーツとかの仲間を意識した発話が蓄積されていることも励まされる要因なのかも。

〔の〕うん。〈ベストを尽くすよ ヘイ!ベストをね〉。ふふふ。

主体としてはあくまでもベストを尽くしにいく心持ちなわけじゃない? 尽くせるかは別としてさ。気持ちの持っていき方としてベストを尽くそうとする。目指してるのが「ベストを尽くそうとする」こと。

《う》〈ぶん投げた〉ことにベストを尽くした、って言ってるわけじゃないもんね。

〔の〕そう! これからの何かしらにベストを尽くしていこうとしてる。ただそれが何なのかはわからないままだから、いったいどういうことなんだと思って、でも主体の心の有り様にすごく励まされる。

《う》この歌、オレンジが波間に浮かんでるけど、だからといって広大な海の景色が浮かぶわけではなくて、ただただ果物のオレンジ色がピンポイントに見えてくるんよね。そこが歌を鮮明にしている点でもあり、でも、その効果を評する上で不思議っていう言葉に回収させるのも違う……。

〔の〕たしかにオレンジがピンポイントに浮かびあがってくる感じはあるね。例えば「海に浮かぶオレンジ」って言われると、もっと広く俯瞰で見るような海の景色が見えてくるかも。でもここでは〈波間〉だから、オレンジが立ち上がってくるなあとは思った。なんでだろうな。

《う》この歌、下の句が発話になっている、つまりなにか行為や状況があるわけではなく、言葉だけの世界になっている。景がこれ以上拡張しない。だから読者の視線が〈ぶん投げた〉方向に、上の句でうたわれている以上には踏み込んでいかない。

〔の〕歌の頭から風景が描き出されるとき、それが比喩でもなく、かといって景色そのものでもなく、映画館の大画面に映し出されているような「イメージ」として現れると思うのね。

風景が映像的に映し出されて、それから一気に転換して発話が出てきたり心情が出てきたりする感じがあります。

14. この春の

この春のうすら寒さをどうしよう タンスにTシャツばかりあふれて *3 

〔の〕またTシャツの歌です(笑)この「どうしよう」って困ってる感じが面白くて。〈春のうすら寒さ〉だから、Tシャツではやはり寒いんですよ。

《う》Tシャツを重ねても防寒性はないね。

〔の〕袖がないとね。Tシャツにも長袖タイプがあるけど、ここでは寒さをどうするかに考えが向いてるので、半袖のTシャツばかりあるんだと思う。

ここで印象的だったのが、主体は衣服を何一つ持っていないから困っているのではなくて、衣服がタンスにあれふれているほどあるのにも関わらず、必要なものがないことが問題になっていること。

もし何一つ持っていなければ、防寒のために服を買うしかないんだけど、量としてそれなりに服があるがゆえに「あるものでどうにかならんかなー、いやどうにもならんのやけどなー」っていう心の動きがあるんじゃないかなと思うんですよ。

あと〈うすら寒さ〉も、ちょっと我慢すれば乗り切れそうだけどやっぱり厳しそう、という微妙なところを突いてくると思った。

《う》〈うすら寒さ〉って、この歌の中の表現をみるとここだけ異質じゃない? 外気の寒さだけでなく、心理的なものも写しとる言い回し。
それで、心理的な寒さだと「わびしさ」のニュアンスが出てきそうなんだけど、ここではTシャツの語が効いてきて、ちょっとポップな景になる。

〔の〕なるほど。「わびしさ」のほうへいかないのは、〈ばかりあふれて〉という過剰さの表現が効果的なのかも。ここで少しコメディっぽい雰囲気になるというか。

《う》ある不足を言うのに、他の過剰を強調してるもんね。下の句で心理が戯画化される感じがするよね。

〔の〕だからといって、ギャグにはいかない、ギャグにはしない。

《う》全体に含みがある言い方で、わかりやすく「ここでずっこけてください 」ということではないもんね。

〔の〕うん。〈うすら寒さ〉という独特な語を含むことで、諧謔*4のテイストに向かうとより誇張されて、ともすれば歌のまとまりを崩してしまう可能性がある。でもそこまでいかずに「どうしよう」というところで引きとどめてあるのが、この歌のコアだと思う。

15. 嫌なやつに

嫌なやつになっちゃいそうだよ もうじゅうぶん嫌なやつだよと抱きしめられる *5 

《う》これね〜!

〔の〕相手がいる状況で、主体は「自分がなりたくないと思っている『嫌なやつ』になってしまいそうだ」というちょっとした自己嫌悪にある。

〈なっちゃいそうだよ〉というところにはちょっと自意識が表れてて、それは感情が波立っていないときは「ごく普通にいいやつ」という自負に基づいた自己イメージが主体にあって、それがちょっと揺らぎ出したと主体は思って発話した。

そしたら、相手から〈もうじゅうぶん嫌なやつだよ〉と全部ひっくり返されてしまって、その上で相手に受容されるというどんでん返しが一首の中で起こるんだよ。思わずおおおってなっちゃった。

《う》「自己イメージが揺らぐ」という読みについてうなずける反面で、いまは〈嫌なやつ〉ではないという含みを「いいやつと自認」しているとまで読んでいいかは迷う。

唐突に今現在の揺れているところから話を切り出していることにも読みどころがあるような気がして。それは、〈なっちゃいそう〉の語気の負うところでもあるんだけど。

「てしまいそう」にある不随意さの含み、しかもくだけて「ちゃう」だから、よりかよわいニュアンス。
なので、自意識が発話によって外部に出てきたことより、主体の視点が自分自身の弱さに向かっていること、内省しようとしていることに重きを置いて読んでる。

そっから先の読みはちえこさんと同じかな。他者が登場してばっさり斬られる。内心だけの出来事とも読みうるけど、自分の視点の先を行ってるから他者と思う。そこで、さらに抱きしめて弱さもまるごと肯定してくれるんだから、読者としてもその人には「敵わないよね」と思っちゃう。

〔の〕今言ってもらったみたいに、自分の視点を凌駕する人が登場することはやっぱりとてもよくって、その人が凌駕しつつ主体を受容するにいたることが、うわーすごいなあって思った。

《う》相手、器が大きいよね。

〔の〕うん。それで、私が自意識という言葉を使ったのは、やっぱり相手がばっさり斬ってくる状況があって、その斬られっぷりに見合うのは自意識ぐらい強固なものというのが念頭にあることが大きいかも。

《う》なるほどね。自分では覆しがたいものを自分より先に察知していて、しかも大きな肯定をくれるところに、読者も主体に感情を移入して安堵しちゃうね。

つづく

*1:P.93

*2:P.111

*3:P.129

*4:おどけておかしみのある感じ

*5:P.175