うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その1
はじめに
おひさしぶりです! 2年ちょっとぶりに、ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ*1」再始動することにしました。
のんびりやっていきたいと思いますので、気長にどうぞよろしくお願いします〜。
というわけで
今回は宇都宮敦さんの第一歌集、『ピクニック』を読みました。歌集からそれぞれ20首選をして、好きな歌について話しています。まずはのつが選んだ歌から。
- 作者: 宇都宮敦
- 出版社/メーカー: 現代短歌社
- 発売日: 2018/11/27
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
〔の〕最初とにかく選んでいったら36首になって、そこからさらに20までしぼりました。なかでも好きなものには☆マークつけたので、それからいこうかな。
《う》☆マークは4首、このなかだとどれが一番好き?
〔の〕え、どれだろう。なんかちょっとずつ好きポイントが違うから全部同じくらい好きな気がするんだけど。そしたらテンション的にこれからいきます。
1.かっこいい
かっこいい漫画を読みたい 強烈な西日のなかでかっこいいのを*2
《う》いいね〜
〔の〕初読、とにかくもうなんか「読みたいよね」というか、ここにおける願望、つまり〈読みたい〉の読みたさが極まっていると思ったのね。
それはどこにひきつけて感じられたかというと、〈強烈な西日のなかで〉のところ。ただでさえ強い西日のさらに強烈な中という光景におかれたことで「読みたさ」がぐっと前面化されたと思った。
結句がいいさしで、〈かっこいいのを〉で終わるのも、これ以上「読みたい」と言い切らなくても、主体としては言い尽くしてると思うのね。それで〈西日〉以上に〈読みたい〉気持ちが上回るくらいの力の込め方を感じる。だからここの〈のを〉には、すごく感動する。
《う》この歌は「かっこいい」ということに対しててらいがなくて、そこがすごく気持ちがいい。
〔の〕ここでいう〈かっこいい漫画〉は、なんか少年漫画の戦闘もののイメージがする。読みたいのテンションもなんとなく少年漫画に結びつく気がして。
あと短歌における願望って祈りのような形、たとえば「〜でありますように」のたたずまいをとるイメージが強いんだけど、これはとにかく「読みたさ」に突き動かされている感じがとてもいいです。
《う》〈読みたい〉願望から、〈強烈な西日〉という皮膚感覚にいって、その〈なかでかっこいいのを〉という流れだと、「西日のなか」で読んでいる自分の存在のうえに「かっこいい」が照射されてしまって、自意識のほうへと読者の視線がうつりかねない。だけど、そうは読ませない感じがあるよね。
〔の〕わたしも「このなかでかっこいい漫画読んでる俺」みたいな自意識のことが読んだときに一瞬よぎったんだけど、繰り返し読んで、やっぱりこの言いさしの形が願望のほうに純化されてると思った。
あとこの歌においてそういう自意識を読みとろうとすることが面白くないと思ったのね。なんでだろう。とにかくかっこいい漫画を読みたい。
《う》たしかに、かっこいい漫画を読んでどうなりたい、みたいに、かっこいい漫画〈と〉発話者の関係ではなくて、かっこいい漫画〈を〉なんだね。
そして、この西日が補強しているのは、自分の気持ち。かっこいい漫画に対する熱い気持ち。
〔の〕うん。心からわきあがる感じがとてもいいです。読んでびっくりした歌でした。
では次にいってみます。
2.雪渓を
雪渓をわたるヘラジカのイメージを贈る なんならTシャツにする *3
〔の〕実はなぜこの歌がわたしの中で印象的なのか不思議なんだけど。まず〈雪渓をわたるヘラジカ〉まではすごく美しい感じで、その〈イメージを贈る〉でいったん抽象化される。それが〈Tシャツにする〉という形で具体化されることのギャップが印象的だった。
〈イメージを贈る〉ための行為が〈Tシャツにする〉に変換されること、言われてみればすごくわかりやすい表れかたなのに、わたしの発想にはなくてびっくりした。
加えて〈なんなら〉で上と下がつながれていることもすごくポイントだなと思ってて。
ここでの〈なんなら〉は、「贈るためならそれくらい進んでやるよ」という意味合いだと解釈してるんだけど、〈Tシャツにする〉っていうのはどの程度労力が必要な行為としてとらえてるんだろう、って少し考えてるのはまあいったんおいて、それを「なんなら〜するよ」の熱量で捉えてることにまじかーって思った。
《う》〈イメージを贈る〉ことはちょっと観念的で実現不可能な感じがするんだけど、〈Tシャツにする〉ことは実現可能なことで、だからこそ、主体の〈イメージを贈る〉というのが本気なんだなってわかるよね。
あとイメージっていうとイマジネーション、ここで言えば、雪渓をわたるヘラジカの光景以外にも、そこから感じられる凜とした空気感や質感のようなものも含まれると思うんだけど、それが〈Tシャツにする〉って言われることで、実際に手渡せるものとして、ぐっと物質化された感じはあるよね。
〔の〕そういう形でイメージをしぼりにいくところ、イメージを固定化というか具体化させるところを同時に歌から読み取っていて、そこに驚きました。
3.オーロラの
〔の〕つぎは……そうだな。これかな。
※思わず笑い出すのつと漆原※
〔の〕〈動けない砕氷船〉というのを見ると、状況としてかなりどうしようもないじゃないですか。砕氷船なのに動けなくて。
砕氷船なのに動けない要因を考えたときに、「環境が違うから故障した」というのも考えられると思うんだけど、でも〈オーロラの下〉って言ってるからそうではなくて、動くべきところで動いてないだろうなというのがあって。だからこそ、一字空けして〈とりあえず〉もいちど一字空けして〈とりあえず踊っとく?〉が、すごく力を持っていると思った。
それでこの最初の〈とりあえず〉は「困ったなあ。どうしたもんかなあ」っていう含みがあって、二度目の〈とりあえず〉は、状況のどうしようもなさを無視してはないんだけど、だからといって完全にネガティブには捉えずにいる感じがあるなあと。絶望してもないけどよしともしてないというか。
《う》〈踊っとく?〉の〈とく?〉ってだいぶ軽い口調だよね。踊っておく、ではなくて。しかも「?」がつくから語尾もあがるし。
〔の〕このオーロラとか砕氷船がなにかのシンボルとして解釈する読みもあると思うんだけど、あんまりそういう方向にはいかない気がしてて。例えば、「砕氷船にいるような気持ちで」ではない感じなのね。
その現場での発話みたいな感じで読んだのは読んだんだけど、うーんでもなんか実際に乗ってる感じもあんまりないな……。
《う》うーん。シンボルとまでは言わないけど、現場感、実際にその砕氷船に乗ってる感じはあんまりしなかったな。体言止めの上の句が映像だけを見せる。
〔の〕そうね。歌集全体を通してみたときに、なんらかの都市生活ぽさがあるから、砕氷船に実際に乗るってことはなくて、それでいくとイメージに対しての心情なのかなあ。
《う》「とりあえず踊っとく?」って言われたらわくわくする。オーロラって不吉の象徴だったりするけど、ここでは下の句の発話の陽気さでそういう作用は抑えられているのかも。
〔の〕純粋にオーロラの像が結ばれるよね。それをうけて、砕氷船の光景があって、それに気持ちを乗せていく感じがいいんじゃないかと思います。
4.好きな食べ物
好きな食べ物分けてもらって友達の子供が友達になる土曜 *5
《う》これ、いい歌だ〜!
〔の〕これはまんまいい歌で。あまりにもいい歌だから、歌会でとるときは悔しくなると思うんだけど(笑)
実はこの歌ちょっと前振り、というかつながりのありそうな歌がありまして、それがこれです。
夏草の穂先にふれる 友達の子供に好きな動物をきく *6
〔の〕もちろん、さっきわたしが引いた歌の子供と一致するかはわからないんだけど、この歌でいったん友達の子供との交流があるのね。ここでも〈好きな〉ものを尋ねることで「共有する」イメージが敷かれている。さらに〈夏草の穂先にふれる〉っていう植物が瑞々しく生きている感じのいい景があって。そのうえで、〈好きな食べ物分けてもらって〉〈友達の子供が友達になる〉ところまで距離が深まるわけですよ!
それで、好きなものを共有するよろこびってもちろんあると思うんだけど、ここでは過度に熱がある、「これ好きだー!」みたいなテンションではなくて、静かにでも確かにうれしい感じがする。
さらに最初は〈友達の子供〉とみていた相手が〈友達〉になる「隔てなさ」があって、それもいいなと思った。大人からみたら「いつまでも子供は子供」みたいな傾向あるじゃない。でも友達の距離感になっていく。
それで、宇都宮さんの歌を読んでると、「きみ」とか「あなた」に対してフラットに肯定的なのね。つまり「私と仲間だからあなたを肯定したい」っていう存在の認め方ではなくて、「あなたがあなたとして存在する」ことをフラットに受け止めていくまなざしがあると思う。歌集全体通して世界観に拒絶されてないというか。そこにすごく、読者としても歌に踏み込んでいける感覚があって、それってひとつ特徴なんじゃないかなと思った。
《う》たしかに、心に境界線がないよね。
〔の〕あと、〈土曜〉も意味を背負いすぎてなくていいと思う。日曜とかそれこそ祝日っていうと、「友達になったぞー!」っていう祝福感が出ちゃうと思うんだけど、ここではそうでなくて、あくまでもこんな出来事があったうえで、うれしさが滲み出てくる感じです。