第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(1)Re:ちえこさま
のつ ちえこ さま
お手紙、ありがとう( 電子的な媒体だけれど、これはお手紙*1とよびたい)。
晴れ女のちえこさんがお手紙をくれたから、今日はさらりとした晴れです。台風も無事にすぎてよかった。いまは、すこしひやりとしている風が吹いていて、着慣れたシャツを着ていても新しい服を着ているようなさわやかな気分にさせてくれます。
そんな折、ついに穂村弘さんの歌がきた。ほむほむ*2といえば、先日、Twitter上で加藤治郎さんが
穂村弘が頭を銀色に染めたらいいな。アンディ・ウォーフォルみたいで。
— 加藤治郎 (@jiro57) September 7, 2016
とおっしゃっていて、納得しながら笑ってしまった。
それでは、早速掲出歌。
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
1.俗悪 ということ
まず、この歌を読んだ時に「サバンナの象のうんこ」ってところで、9割ぐらいの人は「マジかよ」ってなると思う。「うんこかよ、それもゾウの!」
〈うんこ〉って、書かれているだけで、そこにあるものが茶化されてしまうような破壊性*3を持っている単語だよね。
それはなぜかというと、短歌に限らず、現代社会のとりわけ公の領域では、排泄行為は人間の聖性を損なう悪いものとして隠し取り除かれているから。
具体物を人前に晒すなんてもってのほか。文字だけでも公に提示するのは、「常識」という人間社会のルールからは少し外れた行為になってしまって、周囲に困惑を生む。
だけど、この短歌は悪ふざけには受け取れないんだよね。だからこそ、ちえこさんは衝撃だったんじゃないかと思う。
2.ほむほむの歌を(聞け・聞けよ・聞いてくれ)5点
この歌が悪ふざけでもなんでもない、シリアスさをもっているのは、ちえこさんが書いていた以下の点にあると思う。
「聞いてくれ」という呼びかけ。「聞けよ」という強い命令形ではないけれど「聞いてほしいな」という控えめな願望でもない(ここんところの微妙なニュアンスを表現する言葉ってあるのかな)
詳しく考えるために〈聞いてくれ〉を品詞分解すると
聞い(動詞「聞く」・連用形)/て(接続助詞)/くれ(補助動詞「くれる」・命令形)
となる。
最後は命令形では結ばれているものの、「くれる」は他者から話し手が何かの利益を受けることを示す言葉だから、ただ「聞け」というよりも相手の行為に対する話し手の期待が強く出る。
文法的にいうと依頼表現といえるんだろうけど、この用語ではちえこさんのいう微妙なニュアンスは取りこぼしてしまうね。
というのは、この微妙なニュアンスが
3句目の〈名詞+間投助詞*4「よ」〉
と合わさってつくられているから、だと思う。
日常会話で誰かに向って直接「~よ」なんて呼びかけるのはあまり聞かない。
「~よ」という呼びかけをするときは、実際に指示した対象を振り向かせるというよりも、指示した対象を通して自分の内面に向かって話しかける、という印象が強い。
これが依頼文と合わさると、ふしぎと懇願めいた切迫感があらわれる。
3.重さと軽さ
王様の耳しかり、斎藤和義しかり、だれにもいえないことの取り扱いは古くからの
と考えたときに、きっと、主体*6の心の底には〈サバンナの象のうんこ〉への羨望があるように思う。
〈サバンナの象のうんこ〉は、隠しだてされないままサバンナへと落され、排除されることもない。
俗悪かどうかの区別を与えられることなく、ただそこにあるだけ。だだっ広いサバンナに取り残される孤独は、生まれた瞬間から意味とルールに縛られる人間の抱く孤独よりも、ずっと自由に見える。
だから、自身が日々を穏やかにやり過ごすために殺してきた感情を投げかける対象として、主体は〈サバンナの象のうんこ〉を選んだ。
人間社会で過剰に意味を与えられる「存在の重さ」に倦んだとき、自然の中の意味付けのない「存在の軽さ」に思いをはせるのは、ひどく切実だよね。
漆原 涼
*1:手紙、中国語ではトイレットペーパー。「手紙」に書かれた短歌が奇しくも……。この偶然を楽しみたい。
*3:その顕著な例が落書き
*4:文中・文末について言葉の調子を整え、感動・強調・疑問の意を添える。これが使いこなせると助詞力高い
*5:解決策が見つからない難しい問題の意
*6:作中主体。
作中主体とは何か
【作品の内部】
A 視点人物(話者)
B 主人公(行為の主体)
A+B=作中主体
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【作品の外部】
C 作歌主体
D 生活者
C+D=作者
A~Dを同一人物が担当し、
A:Bの対比によってC:Dの葛藤をほのめかすのが
「私性」です。