カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その9

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

11.君の「も」に

君の「も」にアクセントのある「もしもし」を聞きたいけれど手紙を書くよ*1

《う》ちえこさん、「もしもし」って言ってみてくれる? 普通に電話に出る感じで。

〔の〕しもし〜。

《う》だいたいの人は、「も」にアクセントがくるんだよね。

〔の〕あははは!なるほど〜。※ツボに入ったのつ※

《う》「ももし」ってそんなに聞かないよね(笑)

つまり、この歌で指示してあるアクセントが標準的なアクセントなのだろうと思われる。誰が発音してもそう変わらないところをわざわざ〈君〉のそれが聞きたいと思う。この心の動きは、また言ってしまうけど、恋だよ。

こういうふうに、日常的な場面からちいさな心の高鳴りを追体験させてくれる、ということがこの歌集の高揚感のひとつだと思うんだよね。

それで、歌の話に戻ると、君の声が聞きたいなら電話をすればいいわけですよ。でも、この人は〈聞きたいけれど手紙を書くよ〉ってひとつ遠回りなプロセスを踏むの。とても楽しそうに。楽しんでるよな、って思っちゃう。

〔の〕二重に楽しんでるよね。声を聞きたいんだけれども、それをせずに手紙を書くんでしょ? なんかさ、ふふ、なんかちょっと、「ちぇ、なんだよー」って感じする。※言葉とは裏腹ににこにこしているのつ※


《う》あはは、「なんだよー」っていうのは?

〔の〕「なんだよ」っていうのは、ちょっと嫉妬というかうらやましいって感じかな。だって、聞きたいなら電話しろって話でしょ? でも、敢えて手紙を書いていくところに、恋のたのしみを垣間見せられちゃって。

恋って「あえてやらないという選択をする」ところがあるじゃん。本当はそうしたんだけど、せずに抑えておく、みたいなところ。

《う》かけひき?

〔の〕かけひきとは違うな。なんだろう。ひとつひとつの選択を、どうしようか迷うことも楽しんでる感じなんだよね。

《う》うんうん。当初の希望は電話かけることだったのが、いつの間にか手紙に置き換わっていて、距離感としてはより遠ざかるんだけど、距離感を楽しんでいるよね。

そういう気分は〈手紙を書くよ〉っていう呼びかけのやさしさから来るのかな。

〔の〕うんうん。この呼びかけの口調いいよね。

《う》それでね、〈手紙を書くよ〉は呼びかけているけど、目の前に相手がいるわけではないと思うのよ。電話にしろ手紙にしろ、君になんらかのアクセスをする前の段階の歌だから。

だけど、心の中にはすでに〈君〉と呼びかける人の領域が存在していて、その中で対話をしているところが好ましく思える。

〔の〕ふふふ。余裕がありますね。

《う》余裕なのかな、痛切のベクトルではないと思うんだけど、最短のアクセスを避けて遠ざかってしまうのは、臆病でもあるよ。

〔の〕あ、今の「余裕がある」は、切迫していない、くらいのニュアンスです。

《う》なるほど。
少なくともこの歌の内部には君と主体を妨げるものはないね。歌にあるのは、通じ合う手段の問題だけであって。

〔の〕はっ、そっか! 現実は第三者から疎外されることがあった! それはもう、大変なことよ。それをふまえると、この歌は、なんて通りのいい世界なんだ(笑)

《う》この歌の世界って、そういう意味ではユートピアなのかも。

〔の〕うん。なんか、二者の世界なんだけども、閉鎖的ではないな、ということを感じます。

《う》この歌の主体の行動の迂回路に、人の心の機微を思うよね。

12.手の甲で

手の甲でよだれをぬぐいおもむろに伸びする寝起きの君はぶさいく*2

《う》これ、言葉をそのまま素直に読んで、〈君はぶさいく〉に対して「え、ひどい」って受け取るのもひとつの態度だと思うんだよね。

でも、特に歌会では、一つ一つをほぐしていきながら、そうではない解釈が引き出されていく思うのよ。読み解くことは、そこが不思議でもあると思いながら引いてみました。

それで、「そうではない解釈」として私が挙げるのは、まず〈寝起きの君はぶさいく〉の〈は〉。これが言外に〈寝起きでない君はぶさいくではない〉と示しうること。

その言外を引き受けつつ〈君〉にかかる修飾の長さを読むと、ここにあるのは動作をゆっくりと追うまなざしで、ある種の愛情を感じさせるものになる。そのままの文の意味とは裏腹な主体の感情が出てくるんだよね。

〔の〕そうだよね。主体は丁寧に見ている。それに、〈よだれをぬぐいおもむろに伸びする〉君って完全にリラックスしてるよね。そういう一面を見せている、隠す必要がないというところもポイントだなあと思って。

主体もとてもよく見ていて、それと同時に、君も隠すことなく伸び伸びとしている。そういうことが自然と行われているということは、心がひらかれている関係性だよね。

《う》〈君〉の動作には警戒心がなさそうだよね。

〈手の甲でよだれをぬぐい〉と手の位置を起点に描写が始まるから〈おもむろに伸びする〉ときの手の動きがゆっくりとよく見える。そこからも、その場の空気感が伝わってくるね。

あと、表記のことに話が飛ぶんだけど、ひらがな表記もやわらかさとか幼児性が出てくるじゃない。それが不細工という語の角をやわらげていて、リラックスした歌のモードを作ってると思う。

今の読み筋でいくと、〈ぶさいく〉なる語は単なる蔑みではなく、「よそ行きでない君を知っているよろこび」があまって出てきた言葉、という気がしてくる。

〔の〕なるほど〜。〈ぶさいく〉という語に対するていねいな読みがよいなあ。※しみじみするのつ※

《う》ただ、〈は〉という助詞一つで明記されていないことすら読んでいることには後ろめたさもあって。それは言い方を変えると、「解釈によって書き換える」ということ、「言葉で表層を偽ることができる」ということでもあるかもしれない。そう思うと、言葉を扱うことは怖いことでもあるな。

13.知ってる

知ってる 君の名は知ってる 当たり前だろ だから君の親指の名を聞いてる*3

※ひとしきり笑ったのち、沈黙するふたり※

《う》……すごいよね。

〔の〕……すごいね。

※圧倒されているふたり※

《う》とにかく破調。破調の歌。

〈知ってる〉、4音。〈君の名は知ってる〉、9音。いや、〈君の名は・知ってる〉で5音4音? 次の〈当たり前だろ〉、でやっと7音。だ・か・ら・き・み・の……あー、もうわかんないや!

〔の〕あっ、数えることを放棄した(笑)

《う》放棄!(笑) これは音のカタマリとして認識しました。破調というよりは「こういう定型」だね。破調しているから韻律が乱れているわけではなくて、初句4音から読者の「短歌を読む」リズムが解体されて、一気に語気の強さと韻律に翻弄される。それが醍醐味の歌。

「こういう定型」と呼んだのは、4音が繰り返されることで一定のリズムが宿っているところを根拠にしてます。
言語化しにくい歌を引いてしまった。どっから話そうかな……。

《う》えっと、親指の名って発想、変だよね。どこまで歌の読みに常識を持ち込んでいいのかわからないんだけど、親指に名前をつける習慣のある社会を私の狭い見聞では知らないのよ。

この歌は、君の名前は当然知っているから、親指の名を知りたいなんて、こんな突飛なことを言いながら、真顔に見えるのがすごく不思議なんだよね。

〔の〕うん、真顔なのすごくよくわかる。

※再び考え込むふたり※

〔の〕やっぱり、「真顔」ってところから考えたいんだけど、主体は言葉を端的に発していくじゃない? なんというか、表現上、無駄に思われる部分がない。それはつまり、真剣なトーンにもつながるし、一方で伝達に必要な情報が欠けているということでもあると思う。

初句で〈知ってる〉って入ってきて、「主体が知っていること」だけが提示されて、次に〈君の名前は知ってる〉とくるから名前の話とわかる。その次は〈当たり前だろ〉ってくるから、一字空きもあるし明らかに何らかの省略があると読むことができる。だから、これらの文は会話の断片という読み方ができるかもしれない。

《う》うんうん。会話の断片、それも相手に返事しているっぽい。これね、句のあいだに字空きがあるのに、間髪いれさせないところがある気がする。

〔の〕そこ、すごいよね。

《う》〈知ってる〉で歌の韻律がつんのめるようになって間合いが速くなるところとか、〈当たり前だろ だから〉の濁音の入った音の連なりで力が入るところとか、相手に間髪入れさせないと思った要因と見ている。

さっきまで読んできたみたいに、君や世界との距離感を慎重に慎重に測っていく歌が歌集のなかで多くあったのに、この歌はいきなり距離感を詰めて来たよね。

〔の〕「おっ、距離を詰めてきたぞ! 主体の琴線のどこに触れた?」って感じだよね。びっくりしちゃう。

《う》そうそう、びっくりする。食い気味だよね。

それと、ここでびっくりするのは、口調や距離感だけじゃないんだよね。「個人の名前は知っている」ことから「親指の名前が知りたい」という関心が引き出される思考回路、それがさらりと順接でつながっていることにびっくりする。

個人名→親指の名という関心の順序を〈だから〉でつながれても、かえってブラックボックスができちゃうと思うんだけど、その一方で「知っているもの(個人名)ではなく、知らないこと(親指の名)を訊いている」という論理の筋道について〈だから〉でつなぐことに破綻はないじゃない。ここの論理の飛躍の具合が絶妙だと思う。主体なりの論理性は見せながら、しかし心の動き方は飛んでるんだよね。

未知のものを知りたいという欲望は普遍的なものとはいえ、親指の名まで知りたいと思う欲望のあり方にはついていけない。その説明のつかなさが、読者が持つ未知への欲望を刺激するのかな。

で、結局この人の意図は掴めなくても、名前を当然に知っていると言われることでとにかく存在を強く強く肯定されるじゃない。おもしろくて、心強くなる。

〔の〕他者から欲望を提示されるときって、私はちょっとドキッてするんだよね。胸の内にしまっておくはずのものが露わになることに困惑しちゃうことがある。ただここでは主体がぐいぐいくるスピードに置いてかれるところがあって、その勢いにただただ圧倒されました。

*1:p23

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*3:p233

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その8

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

8.手のひらで

《う》次は169ページにいきます。さて、どれと思う?※該当ページを開くと突然三択クイズ*1をはじめる漆原※

〔の〕え? これ?

《う》ばれてる……(笑)

〔の〕ふふ。なんか好きな歌の傾向って見えてくるよね。

手の甲で君のほっぺに触れてみた 君のまぶたが不思議といった*2

《う》ほっぺに触れるということは、間柄はどうであれ、比較的に主体が親しみを持っている相手とのやりとりなのかなと思う。〈まぶたが不思議と言った〉という言い回しからすると、目から君の感情を汲み取っているんだけど、〈言った〉だから、君がそういう表情をしたというのとも違う。この歌は、口から出てくるものや書いたもの、「いわゆる〈言語〉だけが言葉ではない」ということを言っているんだと思う。

それで、触るのが〈手の甲〉だよ。ここに個性がある。

〔の〕うんうん。触るとき、手のひらだと触ることが堂々と認められてる気がするけど、手の甲だと遠慮があるじゃない? 触ることを、ためらうというよりは、触るけどあくまでも「遠慮」がちに触る感じがあって。

《う》だね。手のひらって湿っていたり、体温が感じられやすかったり、人間の肉体のうちでも生命のサインが出やすい部位だと思うのよ。その点、手の甲はさらっとしてるもんね。

〔の〕それも〈みた〉だからね。やってみたのニュアンス。ひとまず、触れてみる。

《う》うん。ためしに、だね。

〈触る〉じゃなくて〈触れる〉なのも繊細な感じがする。触れるの方が微妙に接触面が小さそうだし、意図性も薄くなる。なので、触れることでどういうことが起きるかを考えずに、目の前にあるものへの好奇心に引き寄せられていく気分を〈触れてみた〉から読んでる。

それにしても頬に触れたのに反応が目から出力されるの、おもしろくない? ちぐはぐな感じがして。

〔の〕そうね。ちぐはぐ。※なにやら嬉しそうなのつ※

《う》日常ではこういうことが積み重なってコミュニケーションできているわけだけど、こうして歌になることで、歌が日常を新しく見せてくれるよね。

〔の〕この〈不思議〉という語が、なにを指してるか想像した? 君はどういうことを思っているのか、心情とか。

《う》わからなかったな。この歌でも、君の心情まで踏み込めなかった。

なぜかというと、この〈触れる〉は表層的なことだから、主体は外部に出力されてきたものから感受することはできても、まだ〈君〉の深部まで探りにいってはいない気がするんだよね。

〔の〕そうよね。これ、何に対して「ふしぎ」と言ったのかはわかんないんだよね。

《う》だけど、そういう結果が得られた、と。

〔の〕そう、さっき言ってた「どういうことが起きるか考えずに」ってところ、相手をこういう人と予想しない、決めてかからないってことだと思ってて。「こういう人だからこういう結果が返ってくるだろう」て予想しながら人と関わっていくことをしない。君の〈ふしぎ〉を受け取る態度にもつながってくる。

もちろん歌の前面にそれが出てくるわけではないんだけど。

《う》これ、〈君のまぶたが「ふしぎ」と言った〉と言いつつ、主体もふしぎに思ってる感じがしない?

〔の〕わかる! どっちも相手の動きに対して、お互いにふしぎに思っている感じがある。互いにふしぎ感が共有されているけど、お互いがふしぎと感じている具体的な内容についてはわからない、という状況。

《う》空気は共有してるね。ふしぎに伝染しあってる。また次もことばに関する歌です。

9.言葉をもたない

言葉をもたない生きものなのにそれはもう寝言というほかないネコの寝言*3

《う》破調が効いてるよね。初句二句の主体の従来の認識を一気に言って、〈それはもう〉と一息おいて、そこから発見をたたみかけてくる。その呼吸から、主体の、聞いてほしくてたまらない気分が伝わってくる。

猫も、寝ているときに「フニャフニャフニャ」とか鳴き声を出すことがあるんだけど、それを聞いて〈寝言〉だって思うって、寝ている猫の内側で起きていることに主体が心をシンクロさせている、と見て取ることができると思うのよ。そこに愛情があって、猫詠として好き。とてもよい猫詠です。

〔の〕うん、よい猫詠。うん……猫詠? 新たなカテゴリー名だ(笑)

《う》ふふ。宇都宮さんには猫の歌がいっぱいあるからね。犬もあるけど。

《う》それから、〈言葉をもたないいきものなのに〜ネコの寝言〉から、主体が「言葉をもついきもの」だから「言葉ともつかない寝言を言う」であることが導かれると思うのよ。猫と自分の間にはどうしても越えられない壁があると深く認めながら、それでもそこに共通項があると思えてしまう。そんな感慨があるんじゃないかな。

そして、さっきの歌でも言ったように、狭義の言語だけが言葉じゃなくて、あらゆるものから他者の心の動きを媒介するものを感受する態度も好き。

〔の〕ここで、〈言葉〉と〈寝言〉って、微妙にずらしがあるじゃない? 人間の寝言は言葉なんだけど、猫の寝言って猫語の寝言なのか、それとも「にゃにゃにゃにゃにゃ……」っていう鳴き声のことなのか。

寝言は言葉であるけれども、猫は言葉を持たない生き物で、言葉じゃないのに寝言って考えていくと、ここで歌が「ぐにんぐにんぐにん」ってねじれていく感覚があって、解釈はできるんだけど、言葉に寄っていくほどにどんどん振られる感覚がある。そのねじれる感覚が面白い。

《う》ぐにんぐにん感、わかる。鳴き声を寝言と捉えること自体に、「猫がものを考える」ことや、「眠っているあいだに夢を見る」といった何の説明もなくついてきた前提があって、つまり人間の生のあり方から猫という異種の行動を類推していると思うんだよね。その圧縮の強さは、読者をいい意味で「ぐにんぐにん」させてくれる。

そして、「言葉の世界に属するもの」と「言葉の向こう側」の隙間にある、その言葉にならなさを短歌の表現でよく掴み取ってきている歌だね。

〔の〕それはもう言葉というほかない……※ため息まじり※

《う》ね! 「言葉では言いこぼしてしまうんだけど、こう言うしか表現方法がない」ということだよね。人間の使う言葉そのものに限界を感じている、というのがこの歌の裏側にはあると思う。

〔の〕この歌、N音とかM音が多くて、なんとなくねばりけを感じる。〈い〉とか〈ほかい〉とか、〈いいきものなのにそれはう〉とか。

あとは、[Negototo ]と[Neko no negoto]とか、リフレインの効果もあるけど、加えて頭韻だったり、ね・ねって音をかぶせてくるのが、より〈それはもう〉の念押し感を補強するような働きを感じる。

《う》なるほど! ナ行マ行の鼻に逃げる音を重ねてくる効果。
最初にも触れたけど〈それはもう〉、読むときは〈それはもー〉で伸びるのがすごく好き。Oの音は後ろに引くからかな。ここでブレスがとりやすい。前後が詰まっているからここで次に備えられる、というかタメている感じ。
声に出してみるとここの呼吸に、感嘆が感じられる。

〔の〕いいよね。最初8音7音できて、それはもー(深く息を吸う)、だよね。声に出すとより味わえるよね。

10.いつまでも

いつまでもおぼえていよう 君にゆで玉子の殻をむいてもらった *4

《う》この歌から君と主体の関係を読むのはできないと思うのよ。だって、ゆで玉子の殻をむいてもらっただけだもん。

〔の〕そうね、言われている行為だけ取り出すと、関係性の解釈まではちょっと踏み込めないね。※笑っているのつ※

《う》だけど、こんなにつまらない、些細なことをいつまでもおぼえていたいという気持ちは、恋だなと、私はこの歌を読んでしみじみしました。

〔の〕なるほど、しみじみ。

《う》うん。ふふふ。※思わず照れ笑いする漆原※

それで、「ゆで玉子をむいてもらった」で十分意味が通るところを、わざわざゆで玉子の〈殻〉まで丁寧に言っている点に、主体のこのエピソードに対する思い入れが現れていると思うのよ。
ゆで玉子という食べ物を考えたときに、殻は不可食部で、食べる前のひと手間としてあるだけで、食べ終わるころにはそれがついていたことすら考えないじゃない。

それに、殻って硬いのに薄くて壊れやすくて、何の役にも立たない。そんなものまで、この人はとても大切に大切に記憶のなかに残そうとしている。〈殻〉まできちんと言うことが、このエピソードに対する主体の思い入れを、効果的に読者に読ませにくる。

〔の〕そうね。〈殻〉まで述べることの効果。「ゆで玉子をむいてもらった」だったら、読後に残るイメージは「ゆで玉子」だもんね。

あとこれさ、「君にゆで玉子の殻むいてもらった」でも通るじゃない。でも〈を〉が入っていることで、投げ出してない感じがする。この〈を〉によって、より〈殻〉にフォーカスをあてていくと同時に、執着っていったらおかしいけど、なにげないところへの主体の思い入れが〈覚えていよう〉に返ってくることになる。ここがすごいなと思っている。

《う》ほんとだ! ここ大事。〈を〉が入ることで「してもらった」こと、つまり受益への丁寧な姿勢も出てくるね。「君が私/僕にくれた」ではなくて「私/僕が君にもらった」という事実の受け取り方。

ああ、やっぱり普通に考えたらたいへんどうでもいい出来事だな!(笑) むいてくれた人が、自分にとってなんらかの特別さを帯びている人でないと、覚えていようなんて思わないよ。

〔の〕だね。ふふ。ともすれば、これってちょっとやばいじゃん。

《う》あはは、そっか。やばいのか。※はっとする漆原※

〔の〕だって〈いつまでも覚えていよう〉だよ。そう言われると、おお……そこまで言うのねって私は戸惑う。

あのね、全然関係ないんだけど、なぜか「いい国作ろう鎌倉幕府」を思い出した。なんでだろう、宣言がくるからか。でも宣言的だけど、ひとりごとっぽい。

《う》ふふ、そうね。ひとりごとだね。

〔の〕高らかにいう感じではなくて、内心で静かに言ってる。歌がとっているスタイルは宣言の形だから、一瞬、気持ちの出方におおってなるんだけど、全体の統一感としてはささやかさのほうに着地していく。

《う》殻はいずれ捨てるもので、自分のところには残しておけない。同じように、このことを覚えていられないという懸念が深層にあって、主体にこう言わせているのかな、と考えたりしました。
このあたりで次に行こうと思うんだけどさ、だんだん私の偏りの出方に気恥ずかしくなってきちゃった……。

〔の〕選とはそういうものですから。

*1:『ピクニック』は見開きの左ページにのみ歌がだいたい3首ずつ印刷されている

*2:p161

*3:p105

*4:p147