カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん・序

ということで、第2回のテーマは「口ずさみたくなる歌」。

第1回・その(3)にて短歌の韻律性の話をしてみましたが、口にしたくなる心地よさから始まって、歌についてもっともっと掘り下げていきたい!

ということで、口ずさみたくなる短歌をそれぞれ3首を選びました!

そして今回は、一首評の往復書簡*1形式での対談です!

短歌を読みつつ心に浮かぶよしなしごとを、ちょっとした手紙のように、楽しく書いていけたらなあと思います。

なお第2回・その1は、10/4(火)更新です!

なにとぞお楽しみください!

*1:手紙のやり取り

個人評・漆原(2)身体感覚によって共有される文脈ー生田亜々子の短歌から

次に 
urushinoco.hatenablog.com
の個人評(漆原)です。


短歌とは、上の句と下の句からなる断絶の詩型である、とおもうことがある。
たとえば、こんな歌。

乳房まで湯に浸かりおり信じたいから測らない水深がある
生田亜々子「生きているものだけに降る雨」

この歌から、読者は湯のなかで物思いにひたる情景を自然に思い浮かべるだろう。
しかし、冷静に読んでみると、上の句と下の句について関係性は明示されていない。接続詞によって繋がれていない文が並んでいるだけの状態である。この状況から物思いだ、と判断できるのは、それぞれの文の関係性を読者が結んでいるからである。

では、なにによって断絶を埋めるのか?

それは、まず短歌という詩形がもつ語りの形式である。一首のうちでは、なにか関わりのあることが述べられているのだろう、という約束のもとに次の文を読み下していくため、自然と共通項を探ることになる。
そして、水深という共通項を見出すことで、上の句と下の句を読み繋ぐ。こうして、歌は一つの意識のもとに読まれることになる。
つまり、乳房で水の深さを感じ取り、そこから深さやその全容を知らないものを連想し、それをそのままに信じようとするものへの思いへと移行したのだということを、読者も自らの経験と擦り合わせながら推察するのである。
この歌の上の句は柔らかな身体感覚という受動的な叙述であり、下の句は〈信じたい〉〈測らない〉という主体の能動的な意思の表明になっているが、これらを理屈によって関係付けず、文脈の共有を読者との身体感覚の共有に委ねたところがこの歌の魅力である。
主体の内側にある主観を説明しただけでは、他者の内面の感情を直感的に喚起するのは難しい。​読みを探る過程で読者の内面で鍵を探すよう促し、おのおのの鍵を読者が見つけたとき、感情の表明が補強されていくのだ。

さらに、下の句の裏を返せば、測れば信じられなくなってしまうということを主体は予感しているともいえるだろう。
それでも、測らないという。
すくなくとも主体は水深をどの程度かは肌で感じているはずだ。不確かでときに欺きさえもするものを受け容れようとする思いの強さに、共感しつつたじろぎをおぼえる。

ここには作品中の視点とメタレベルの視点のうちに、二つの「信頼」が伺える。
まず、

①作中主体から対象へ向けられた信頼

信じるためにあえて目を瞑る。主体の信頼とは、測らないことで主体が受ける(かもしれない)裏切りさえも折り込み済みなのである。
受容する側の内面に根ざした強さによって、逆説的に信頼という行為の脆さが浮き彫りになる。

そして、メタレベルでは

②作者が短歌詩型へよせる信頼

上の句と下の句の断絶をどこまで読者に委ねるかは作歌における駆け引きだ。この歌では、伝えたいことを読者に投げ出しすぎず説明を与えすぎることもない。盲信でも不信でもない。ここまで書けば届くという絶妙な距離を保って書かれた歌といえるだろう。
これは歌人自身がこれまでの短歌との関わりの中で見出してきたものだ。

作中主体と歌人のしたたかさが、ともに湯気のようにたちのぼる。手は、深い断絶にむけてさし出されている。