第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(3)To.うるしはらさま
漆原 涼さま
うるしはらさーん、また台風だよー!!
私の一番の台風の思い出は、中学生の時に通学路にしていた池が湖くらい大きい某O公園の上空を、カラスが羽を広げたまま風に身を任せてグルグル回転してとんでいたこと。ここでいう回転とはローリングストーンのイメージです。
なんかそんときはすごく衝撃だった。カラスも風に対する楽しみ方一緒なんかって。遊び心とは人間以外にも宿ってるっぽい、多分。
カラスの話はさておき、今日はこの歌を。
またしても時代が俺に追いついて何周遅れかもう分からない
またしても、って「また」の強調表現だから、そのあとに続くのは、既に何度か繰り返されていることなんだよね。しかも、
「またしても事故に遭う」「またしても鍋を焦がす」
のように繰り返された内容は、あまり良くないイメージであることが多い。
そこに「時代が(人物に)追いつく」という慣用句的な表現(ふと慣用句なのか調べたのだけど、定型表現というか、まあ人口に膾炙しているという表現ということで)が繋げられる。
時代が追いつくっていうのは、その人物が最先端にいて認められていなかったのが、環境的に認められるようになった、というところで、その人物にとってはプラスのイメージであるはずなんだよね。
ここで、私たちはちょっと謎めいたような、不穏な気持ちになる。
そして結句に進むと
「何週遅れかもうわからない」
時代が作中主体を追い抜いて、その上置いていかれている。
しかも何度も。
もう俺の時代はこないんだな、いやもはや追いつくことができないんだな、という哀しさがある。存在的には俺が最初にいたわけで、それを時代というなんかよくわからんでかいものに取り残されていく感覚。
そこあるのは孤独なんだろうけど、時代が俺に追いつくというドライな目線がくすっとさせてくれるし、そういうコミカルさが魅力。
初句から結句にかけて、切れることなく読める歌というのは口ずさみやすさポイントやね。
この歌を音から見ていくと
Ma Ta Si Te Mo
Ji Da i Ga o Re Ni
o i Tu i Te
Na N Shu-u o Ku Re Ka
Mo-u Wa Ka Ra Na i
のよう句ごとに音が固まっていて、それがリズムをなしてる。そしてそのリズム感が歌の持つスピード感にもつながっていると思う。K音・S音だと比較的素早さにつながるんかなあと思うんやけど、ここで多用されている子音からは、遅さ、足を取られているようなスピード感があるよ。
あとは「時代が」の濁音の強さが「俺」よりも圧倒的に強いものとしての結びつきになってて存在の取るに足らなさがじわじわくる。
さっきドライな目線って表現したけど、結句に来る「わからない」のa音の多用が投げ出している感じというか解放されている気もしていて、歌がウェットになりすぎないのかもしれないとか思ってみたり。
ところで、うるしはらさん。慣用句とかことわざとか四字熟語って好きですか?
私はかなり好きで、小学生の頃かなりそこらへんの辞典を読み込んでいたのだけど、言語創作の上では「紋切り型」とか言われて忌み嫌われるじゃない?
自分の言葉で表現しましょう、とか。一から組み立てましょう、だとか。
でも、慣用句だとかことわざがそもそも修辞表現な訳で、そこから立ち上がるイメージがあるわけだし、私はそれが言葉の持つ面白さそのものだと思っている。
もちろん紋切り型と呼ばれる表現を、その表現が表すシーンにそのまま当てはめてしまうとただのベタになってしまうから、そこは考えどころではあるんだけど、イメージの裏切りとして使っていくことを考えるならこういう紋切り型表現ってもっと意欲的に使われてもいいと思うんだよね。
言葉と言葉がぶつかって不意に生まれる出会いというか(どこの新学期初日の朝だ)、イメージの裏切りながら立ち上げていく重要な契機として、私はこういう紋切り型表現に挑んでいきたいと思う新しい朝が来たのでした。
今回取り上げた歌の出典:山本左足、うたらば採用歌 第64回テーマ「後」、2014
またしても時代が俺に追いついて何周遅れかもう分からない / 山本左足さん #tanka #utalover
— うたらば (@utalover) 2014年7月26日
@utalover またしても時代が俺に追いついて何周遅れかもう分からない (山本左足) #tanka
— 山本左足 (@hidariashiy) July 21, 2014