カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その10

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

14.くちびるに

くちびるに思い上がりを 下りてゆくエレベーターからみる雪が好き*1

《う》三句〜結句の文にくらべると、〈くちびるに思い上がりを〉という文の解釈はいろいろありうるよね。この歌をどう読んでいくか考えるときに、それが難所でもあると思うのよ。
まず私が想定したのは、「われに五月を」とか「くちびるに歌を」と同種の言い回し。倒置を戻すと「思い上がりをくちびるに」となって、思い上がることへの希求がにおってくる。

それから、もう一つは文語脈の歌でよくある逆接〈を〉の可能性も捨てきれなくて、「くちびるに思い上がりはあるものの、下りていくエレベーターからみる雪が好き」という意味合いもありうる。ただ、一字開けを挟んでいるからそこを無視して完全にひと続きの文と見るわけにもいかない。

どちらにせよ、言いさしの先は歌の中には見つからないから語釈を明快に絞れないんだけど、一つだけ動かなかったのは、思い上がりという思考の状態がくちびると結びついているということ。

それ以上のことは保留にしながら下の句を読んでいくと、エレベーターで下りていくときの独特の引きずられる体感が刺激された。そうやって歌が私という読者の身体に入ってきたとき、思い上がったときのくちびるの動きとして口角がきゅーっと引き上げられる体感も得たんだよね。

歌の中に、単純に上下二つの語があるだけではなくて、異なる方向の体感を呼び込むのが面白くて、好きな歌です。

〔の〕〈思い上がりを〉だから、必ずしもくちびるの動作に感情が乗っかってくるのかはわからない部分なんだけど、でも読んでいくときゅっと口角を上げたくなる感じはあって、エレベーターの重力がぎゅーっとかかるときの体感と重ね合わせを読んでいくのは、ひとつ面白いと思った視点。

〈思い上がりを〉というと、調子に乗ってるな、というややネガティブなイメージというか、ちょっと「ん?」って思わせるところがあって。

《う》ほんと? ネガティブだった?

〔の〕うん。一般的に「思い上がり」って、相手を非難するときに使われることばじゃない? 言い止しだから、わりとフラットめには配置されているんだけど。

その非難のイメージやニュアンスにひっぱられて、この表現を解釈するときに私は一瞬立ち止まることにはなったな。

で、そこから一字空いて〈下りていくエレベーターから見る雪が好き〉とつながるから、ここに「上下」としての対比を感じる。そして最後に〈好き〉というところに落ち着くから、当初一首を読むなかで想定していた〈思い上がり〉の気持ちの強さとは違う方向にむかう読後感があるね。

《う》ああたしかに、下の句で好きなものを言われることで、思い上がったときの「心が浮きたつ気分」が引き立てられていると思う。
実は私はそんなに〈思い上がり〉にネガティブな印象はなかったんだよな。
それを左右するのは、やっぱり〈を〉の取り方になってくると思うんだけど、〈を〉に希求するニュアンスを受け取ると、思い上がりと自分を牽制しつつそれに浸りたい主体の心情をみることになるから、よろこび成分を強く感じ取ったんだと思う。私は。
下りのエレベーターは少し身体が浮くような一瞬があって重力がかかってくるから、浮かれる自分を制する心の動きにもほんのりとリンクしてくるな。

〔の〕体感にすごくくる歌だよね。読みも身体感覚をものすごく感じてるんだなあ、と。私は〈思い上がり〉をどう取るか、とか、三句目以降の景をどう結びつけていくか、で立ち止まっている。

《う》そっか。字空きの前後で飛躍はしてるもんね。上下の方向を示す言葉があっても、語句の質が違うね。

〔の〕そうそう。でもどちらも「上下」にまつわる語であるゆえに、連関性は発見できるじゃない。だからこそ、そのふたつのイメージを読みのなかで連関させていこうとしたときに、その質の違いから確定的には結び付けられなくて、どうしようかなってなる。
だから私的にはあまり読めていない歌。いい感じだな、くらいのところで止まる。

《う》そうなんだよね。現状、私が言ったのって客観的にテクストを読むところからは逸脱気味なんだよね。
でも、体感を通して読むと、思い上がったときにはそれを抑えようとうつむく首の動きも出てきて、その斜め下に向かう視線の中に自然と外の雪が落ちながら入ってくるところまで見えて、面白かった。

〔の〕うんうん、いいですねえ。

《う》降る雪のさなかへ同化していくようにエレベーターで下りていくのは、この主体にとって無害な思い上がりのひとつかもしれないな。まあ、思い上がりが何かっていうのは、この作中主体だけが預かり知るもののままでいいんだけどね。

15.浅知恵の

浅知恵の深読みたちをだまらせる折り目正しく乱れるシーツ*2

《う》こういうレトリカルさは宇都宮さんの持ち味だな、と思って引きました。

「浅い↔︎深い」、「正しい↔︎乱れる」というような相反する語が順に提示して、読者をいい意味で撹乱させる。この〈浅〉は、〈シーツ〉という語と共に提示されると「朝」の掛詞としてはたらきうる。それで〈乱れるシーツ〉とくると、どうしても性愛の結果として残る乱れと思ってしまうんだけど、上の句で〈浅知恵の深読みたちをだまらせる〉って言われてるから……

〔の〕ふふふ。ここ釘を刺してきたね!

《う》そう。メタできた(笑)

だから、私はこの歌にこれ以上立ち入ることは禁じられているんだな、この読み方は〈浅知恵の深読み〉なんだな、と慎みました。

〔の〕私は、今言ってもらった以上のことはもう言えないというか、おお……(踏み込むのよくない)と思って次に行く。

《う》レトリカルでメタなんだけど嫌味がないし、性愛の歌なのに清潔だなと思って。
〈折り目正しく〉って慣用句だけど、シーツという物質に修飾がくるので、逐語的な意味が復活してると思うのよ。私はここで具体的に、きれいに糊付けしてアイロンがけされた清潔なシーツを想像しかけた。でも、やっぱり〈折り目正しく乱れる〉だから、読解上とてもノイジーではっきりと具体を掴ませてはくれない。それが、この歌の清潔さだと思っている。
かろやかにイメージを裏切る修辞の展開に惹かれるんだよね。

16.破れたのは

破れたのは夢ではなくて船だから木切れが夢の岸に届くよ*3

《う》『ピクニック』には、心くすぐるような歌がたくさんあるんだけど、こういうどこか苦味のある歌が散見されるところが、作品世界に奥行きを与えているんだよね。

破船。悲惨なイメージでありながら、語気の穏やかさからは童話的なイメージに収斂していく……でも、どちらにしても取り返しがつかない感じがする……ん? こんなことが言いたかったんじゃないな。あれれ。

〔の〕うん、うん。破れたのは夢ではなくて船だから、「その船の木切れが」夢の岸に届きますよ、ってことだよね。※助け舟を出すのつ※

これ、面白いなって思ったのが〈届くよ〉。偶然漂着した、ということなのかもしれないけど、なんだか「届けられた」感じが私にはする。「木切れが来るよ」みたいな。

《う》あ〜、それわかる。willのニュアンス。〈届く〉という動詞には「相手方の場所にものが着く」意味合いもあるし、文末の〈よ〉に、この文に発話対象を引き寄せるところがあって、主体の現在の眼差しが向けられている点(船)→発話の対象がある地点(夢の岸)みたいな指向をぼんやりと感じている。
どこに主体がいるのかは特定できないけど。

〔の〕それで「夢が破れたのではない」とは言っているものの、この歌は挫折してしまった状況に対してなにか発せられたような気がする。
普通「船だから気にしなくてもいい」というふうに接続すると思う。でもこの歌は、「壊れたのは夢そのものではなくて、夢の中にある船が壊れて、その結果として船の一部が夢の岸に来るよ」というわけだよね。読んでいくと難しくなっていくね。

《う》そうなんだよ〜。難しいのは名詞の性質のせいもあるのかな。
〈夢〉は、寝ている間に見るものにしても将来にむけて抱くもにしても、抽象的な名詞だよね。でも、〈夢ではなくて船〉というふうに、船という実体を持ちうる名詞と並んで、しかもその破片まで出てくることで、夢にも実体があるかのように読者が受け取ってしまう部分がある。
だから、単に〈夢の岸〉とだけ提示されたときの比喩的なニュアンスを越えて、リアルな場所として浮かび上がってくるのよね。
そこで、錯綜してしまう。それは読みのつまずきということではなくて、ことばによって現実と非現実のあわいに誘われる読みのよろこびだと思う。そのあわいを行き来する媒介が〈木切れ〉。すごく不思議な印象が残る。

深い痛みを内包しているのに、韻律はあくまで穏やかで、[yumeとfune]とか、[Kogire ga Yume no Kishi ni todoku yo]のコ・キ・クっていう音の安定感もいいな。

〔の〕夢と船は脚韻だね。語気を荒げることなく、叱咤激励でもない。

《う》うん。そして、さっきちえこさんが言ってたように、〈ではなくて〉に続くのは救いや慰めでもない。この穏やかな口ぶりはかえって毅然としているね。

17.年甲斐もなく

年甲斐もなく浜風にはしゃぎ 夏 花火をみた 秋 花と火をみた*4

《う》初読のとき、〈花火〉をみたところから時間を経て、〈花〉と〈火〉にそれぞれ分岐するところに、素朴に感動した。花火という語を見慣れすぎていて、この語が〈花〉と〈火〉を合わせてできた語だと忘れてしまっていて、「そっか、この語を腑分けするとこんなに美しいものがでてくるのか!」 っていう言語的なよろこびがあった。
この歌の主体ははしゃいでいるんだけど、〈年甲斐もなく〉と自らを制する眼差しがあるから、それが〈はしゃぐ〉ことに対しても、そして〈夏〉〈秋〉と季節を重ねていくことに対しても、静かな感慨を含んでいる。

〔の〕私も初読で〈花と火をみた〉に惹かれるものがあった。改めていま読むと、この〈年甲斐もなく〉があってこそだな、と思う。〈年甲斐もなく〉でも、〈はしゃぐ〉から気持ちは上がるじゃない。上がったところから夏に花火をみて、〈秋〉ってくると季節的にも少しトーンダウンして、花と火をみる。確実に変化はしているけれども、それが激しくはなく、季節がすーっすーっとなめらかに移り変わる感じできて、しみじみしてしまう。
それといまふっと思ったんだけど〈秋〉にも〈火〉が入ってるね。

《う》あ、ほんとだ、火。
主体は無闇にはしゃげるわけでもないんだよね。
花火って手持ちにしても打ち上げにしても燃えながらはじけていく華やかなもので、その次の季節にはそれより自然をみていて、抒情の質も穏やかに深まっている感じがする。
あと、文字列をみると、花火が浜風に吹かれて 花 火 って散って広がっていくみたい。

〔の〕おお〜。なるほどね。じんわりくるな。


3月から更新してきた「うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む」篇もいよいよ残り1回となりました! 次回もよろしくお願いします。

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