カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その8

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

8.手のひらで

《う》次は169ページにいきます。さて、どれと思う?※該当ページを開くと突然三択クイズ*1をはじめる漆原※

〔の〕え? これ?

《う》ばれてる……(笑)

〔の〕ふふ。なんか好きな歌の傾向って見えてくるよね。

手の甲で君のほっぺに触れてみた 君のまぶたが不思議といった*2

《う》ほっぺに触れるということは、間柄はどうであれ、比較的に主体が親しみを持っている相手とのやりとりなのかなと思う。〈まぶたが不思議と言った〉という言い回しからすると、目から君の感情を汲み取っているんだけど、〈言った〉だから、君がそういう表情をしたというのとも違う。この歌は、口から出てくるものや書いたもの、「いわゆる〈言語〉だけが言葉ではない」ということを言っているんだと思う。

それで、触るのが〈手の甲〉だよ。ここに個性がある。

〔の〕うんうん。触るとき、手のひらだと触ることが堂々と認められてる気がするけど、手の甲だと遠慮があるじゃない? 触ることを、ためらうというよりは、触るけどあくまでも「遠慮」がちに触る感じがあって。

《う》だね。手のひらって湿っていたり、体温が感じられやすかったり、人間の肉体のうちでも生命のサインが出やすい部位だと思うのよ。その点、手の甲はさらっとしてるもんね。

〔の〕それも〈みた〉だからね。やってみたのニュアンス。ひとまず、触れてみる。

《う》うん。ためしに、だね。

〈触る〉じゃなくて〈触れる〉なのも繊細な感じがする。触れるの方が微妙に接触面が小さそうだし、意図性も薄くなる。なので、触れることでどういうことが起きるかを考えずに、目の前にあるものへの好奇心に引き寄せられていく気分を〈触れてみた〉から読んでる。

それにしても頬に触れたのに反応が目から出力されるの、おもしろくない? ちぐはぐな感じがして。

〔の〕そうね。ちぐはぐ。※なにやら嬉しそうなのつ※

《う》日常ではこういうことが積み重なってコミュニケーションできているわけだけど、こうして歌になることで、歌が日常を新しく見せてくれるよね。

〔の〕この〈不思議〉という語が、なにを指してるか想像した? 君はどういうことを思っているのか、心情とか。

《う》わからなかったな。この歌でも、君の心情まで踏み込めなかった。

なぜかというと、この〈触れる〉は表層的なことだから、主体は外部に出力されてきたものから感受することはできても、まだ〈君〉の深部まで探りにいってはいない気がするんだよね。

〔の〕そうよね。これ、何に対して「ふしぎ」と言ったのかはわかんないんだよね。

《う》だけど、そういう結果が得られた、と。

〔の〕そう、さっき言ってた「どういうことが起きるか考えずに」ってところ、相手をこういう人と予想しない、決めてかからないってことだと思ってて。「こういう人だからこういう結果が返ってくるだろう」て予想しながら人と関わっていくことをしない。君の〈ふしぎ〉を受け取る態度にもつながってくる。

もちろん歌の前面にそれが出てくるわけではないんだけど。

《う》これ、〈君のまぶたが「ふしぎ」と言った〉と言いつつ、主体もふしぎに思ってる感じがしない?

〔の〕わかる! どっちも相手の動きに対して、お互いにふしぎに思っている感じがある。互いにふしぎ感が共有されているけど、お互いがふしぎと感じている具体的な内容についてはわからない、という状況。

《う》空気は共有してるね。ふしぎに伝染しあってる。また次もことばに関する歌です。

9.言葉をもたない

言葉をもたない生きものなのにそれはもう寝言というほかないネコの寝言*3

《う》破調が効いてるよね。初句二句の主体の従来の認識を一気に言って、〈それはもう〉と一息おいて、そこから発見をたたみかけてくる。その呼吸から、主体の、聞いてほしくてたまらない気分が伝わってくる。

猫も、寝ているときに「フニャフニャフニャ」とか鳴き声を出すことがあるんだけど、それを聞いて〈寝言〉だって思うって、寝ている猫の内側で起きていることに主体が心をシンクロさせている、と見て取ることができると思うのよ。そこに愛情があって、猫詠として好き。とてもよい猫詠です。

〔の〕うん、よい猫詠。うん……猫詠? 新たなカテゴリー名だ(笑)

《う》ふふ。宇都宮さんには猫の歌がいっぱいあるからね。犬もあるけど。

《う》それから、〈言葉をもたないいきものなのに〜ネコの寝言〉から、主体が「言葉をもついきもの」だから「言葉ともつかない寝言を言う」であることが導かれると思うのよ。猫と自分の間にはどうしても越えられない壁があると深く認めながら、それでもそこに共通項があると思えてしまう。そんな感慨があるんじゃないかな。

そして、さっきの歌でも言ったように、狭義の言語だけが言葉じゃなくて、あらゆるものから他者の心の動きを媒介するものを感受する態度も好き。

〔の〕ここで、〈言葉〉と〈寝言〉って、微妙にずらしがあるじゃない? 人間の寝言は言葉なんだけど、猫の寝言って猫語の寝言なのか、それとも「にゃにゃにゃにゃにゃ……」っていう鳴き声のことなのか。

寝言は言葉であるけれども、猫は言葉を持たない生き物で、言葉じゃないのに寝言って考えていくと、ここで歌が「ぐにんぐにんぐにん」ってねじれていく感覚があって、解釈はできるんだけど、言葉に寄っていくほどにどんどん振られる感覚がある。そのねじれる感覚が面白い。

《う》ぐにんぐにん感、わかる。鳴き声を寝言と捉えること自体に、「猫がものを考える」ことや、「眠っているあいだに夢を見る」といった何の説明もなくついてきた前提があって、つまり人間の生のあり方から猫という異種の行動を類推していると思うんだよね。その圧縮の強さは、読者をいい意味で「ぐにんぐにん」させてくれる。

そして、「言葉の世界に属するもの」と「言葉の向こう側」の隙間にある、その言葉にならなさを短歌の表現でよく掴み取ってきている歌だね。

〔の〕それはもう言葉というほかない……※ため息まじり※

《う》ね! 「言葉では言いこぼしてしまうんだけど、こう言うしか表現方法がない」ということだよね。人間の使う言葉そのものに限界を感じている、というのがこの歌の裏側にはあると思う。

〔の〕この歌、N音とかM音が多くて、なんとなくねばりけを感じる。〈い〉とか〈ほかい〉とか、〈いいきものなのにそれはう〉とか。

あとは、[Negototo ]と[Neko no negoto]とか、リフレインの効果もあるけど、加えて頭韻だったり、ね・ねって音をかぶせてくるのが、より〈それはもう〉の念押し感を補強するような働きを感じる。

《う》なるほど! ナ行マ行の鼻に逃げる音を重ねてくる効果。
最初にも触れたけど〈それはもう〉、読むときは〈それはもー〉で伸びるのがすごく好き。Oの音は後ろに引くからかな。ここでブレスがとりやすい。前後が詰まっているからここで次に備えられる、というかタメている感じ。
声に出してみるとここの呼吸に、感嘆が感じられる。

〔の〕いいよね。最初8音7音できて、それはもー(深く息を吸う)、だよね。声に出すとより味わえるよね。

10.いつまでも

いつまでもおぼえていよう 君にゆで玉子の殻をむいてもらった *4

《う》この歌から君と主体の関係を読むのはできないと思うのよ。だって、ゆで玉子の殻をむいてもらっただけだもん。

〔の〕そうね、言われている行為だけ取り出すと、関係性の解釈まではちょっと踏み込めないね。※笑っているのつ※

《う》だけど、こんなにつまらない、些細なことをいつまでもおぼえていたいという気持ちは、恋だなと、私はこの歌を読んでしみじみしました。

〔の〕なるほど、しみじみ。

《う》うん。ふふふ。※思わず照れ笑いする漆原※

それで、「ゆで玉子をむいてもらった」で十分意味が通るところを、わざわざゆで玉子の〈殻〉まで丁寧に言っている点に、主体のこのエピソードに対する思い入れが現れていると思うのよ。
ゆで玉子という食べ物を考えたときに、殻は不可食部で、食べる前のひと手間としてあるだけで、食べ終わるころにはそれがついていたことすら考えないじゃない。

それに、殻って硬いのに薄くて壊れやすくて、何の役にも立たない。そんなものまで、この人はとても大切に大切に記憶のなかに残そうとしている。〈殻〉まできちんと言うことが、このエピソードに対する主体の思い入れを、効果的に読者に読ませにくる。

〔の〕そうね。〈殻〉まで述べることの効果。「ゆで玉子をむいてもらった」だったら、読後に残るイメージは「ゆで玉子」だもんね。

あとこれさ、「君にゆで玉子の殻むいてもらった」でも通るじゃない。でも〈を〉が入っていることで、投げ出してない感じがする。この〈を〉によって、より〈殻〉にフォーカスをあてていくと同時に、執着っていったらおかしいけど、なにげないところへの主体の思い入れが〈覚えていよう〉に返ってくることになる。ここがすごいなと思っている。

《う》ほんとだ! ここ大事。〈を〉が入ることで「してもらった」こと、つまり受益への丁寧な姿勢も出てくるね。「君が私/僕にくれた」ではなくて「私/僕が君にもらった」という事実の受け取り方。

ああ、やっぱり普通に考えたらたいへんどうでもいい出来事だな!(笑) むいてくれた人が、自分にとってなんらかの特別さを帯びている人でないと、覚えていようなんて思わないよ。

〔の〕だね。ふふ。ともすれば、これってちょっとやばいじゃん。

《う》あはは、そっか。やばいのか。※はっとする漆原※

〔の〕だって〈いつまでも覚えていよう〉だよ。そう言われると、おお……そこまで言うのねって私は戸惑う。

あのね、全然関係ないんだけど、なぜか「いい国作ろう鎌倉幕府」を思い出した。なんでだろう、宣言がくるからか。でも宣言的だけど、ひとりごとっぽい。

《う》ふふ、そうね。ひとりごとだね。

〔の〕高らかにいう感じではなくて、内心で静かに言ってる。歌がとっているスタイルは宣言の形だから、一瞬、気持ちの出方におおってなるんだけど、全体の統一感としてはささやかさのほうに着地していく。

《う》殻はいずれ捨てるもので、自分のところには残しておけない。同じように、このことを覚えていられないという懸念が深層にあって、主体にこう言わせているのかな、と考えたりしました。
このあたりで次に行こうと思うんだけどさ、だんだん私の偏りの出方に気恥ずかしくなってきちゃった……。

〔の〕選とはそういうものですから。

*1:『ピクニック』は見開きの左ページにのみ歌がだいたい3首ずつ印刷されている

*2:p161

*3:p105

*4:p147