カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その7

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

4.まず頬が

まず頬が朝にふれたらまばたきを ねんのためもう二回まばたき*1

《う》なんて言おうかな。 世界、という語の大きさに戸惑いながら話すんだけど、世界……つまり自分をとりまくものの感受の仕方が、この歌で歌われている。他の人がどういう仕方で世界を受容しているのか、なんて言葉にならないとわからないことだよね。
この主体の場合は、〈まず頬が〉だから、皮膚感覚から受け取るんだね。「朝にふれる」ということで、朝という語が、時間的な意味だけではなく、大気や朝日や温度をまとった浮遊物として立ち上がってくる。そこに、よろこびがある。
日常生活をしていると、朝なんていやでもくるもの、と慣らされてしまうじゃない? でも、こういう風に歌になっていることで、朝を新鮮に受け取る態度を味わうことができる。それで、うれしくなる。

〔の〕その、うれしさや、よろこびの度合いはどれくらい?

《う》というと?

〔の〕主体はどのくらいよろこんでる? たとえば、〈朝がくるだけでうれしい〉とか、あるじゃない。

《う》うーん、この歌を読んで、読者として私自身がうれしくなるんだよね。でもこの主体がよろこんでいるのかどうかはわからないな。触れあうほど近くにあるものでさえ当然のものとせず、注意深く確かめようとしている主体の姿勢を、私は歌から読んでいるのよね。
歌にあるのは確認の手順だけだから、主体の感情はこのあとにやって来るものじゃないかな。

〔の〕なるほどそういうことか。私も、おそるおそるじゃないんだけど、やっぱりちょっと確認というところを読んでいる。朝が来て、というか、頬に朝がふれるだからまず質感があって、それからまばたきをしたと。そのことで、恐怖とかのそれではなく、おそるおそる確かめている。どうやら朝っぽいぞ、というところから慎重に、注意深く。
宇都宮さんの歌はよく見ていたりするから、対象をどれくらい見るか、とかの注意深さである、と。
そこが掴めてくると、なるほど面白いぞってなった。私はスルー気味の歌だったから。

《う》〈ねんのため〉がひらいてあるじゃない? だから、警戒心までの過敏さにはいかなくて。

〔の〕そう、警戒って感じでもない。でも、確認はする。

《う》それで、〈まばたき〉は視覚もあるんだけど、最初に触覚から入ってるから、これもまぶたと眼球にくるんだよね。
で、身体の表層でふれていた朝を、今度は光として内部に取り込む。朝の大気のなかで、三度まつげが舞うというか……上下する……

〔の〕しばたく。

《う》そうそう、しばたく。動きが蝶みたいで、映像としても良い。

5.君は僕の

君は僕のとなりで僕に関係ないことで泣く いいにおいをさせて *2

《う》歌意としては明快なほうだよね。この歌を一読して、となりにいるのにもかかわらず、こんなにも君が遠いのか、と思った。その感慨をくれたことが、私にとってこの歌のすべてといってもいい。
僕の方も、となりで君が泣くのに、自分のせいではないかと過敏になったりはせず、僕の関心はにおいのほうに続いていて、しかもちょっといい感じに受け取っている。マイペースとも言えるかもしれない。
そして〈関係ない〉の字足らずになる助詞抜きのリズムからは、自他をきっぱりと線引きしている印象を受ける。
これこそ、他者の受容の仕方がフラットだと思った。泣いていても〈いいにおい〉だから、状況にネガティブな判断はない。
どんなに近くにいても僕には関与できない君の精神活動があり、僕のほうもそうだという、そのまなざしのあり方に、私は共感するな。

〔の〕そうね。この〈いいにおい〉という、感触のよいものがくることによって、歌のもっているものをネガティブな方向からは反らす効果があるんだな、というのがひとつ。
で、今「こんなにも遠い」ってことを言ってくれたところ。「物理的にとなりにいるのに泣いている」遠さもあるけど、かつ〈いいにおいをさせて〉ってにおいが自分の中に入ってくるじゃない。だから「入ってくるにもかかわらず、関係のないことで泣く遠さ」。君は物理的には近いんだけど、主体の遠さへの思いの馳せ方にフォーカスされていくから、フラットさといえばフラットさなんだけど、そうプラスでもないしマイナスでもない。ちょっとした揺れ……ちょっとさざめき立つというか、水面が揺れているような内面を主体は絶妙に感知しているな、と。

《う》うんうん。〈いいにおいをさせて〉って、付帯する状況だから、ここになにを切り取ってくるかによってそれぞれの個性が出てくると思うんだよね。この主体にとっては、涙もにおいも出力される仕組みがわからないものだし、そのおおもとになる君はもっとわからないものなんだろう。
君という心があってその周りに身体があって、さらに外に汗とか涙とかにおいとかアウラみたいなものがあって、その一番外側から順に感じとっている。ここに個性があると思ったねー。

〔の〕うん、そうね。

《う》というところで次に行くね。次も歌意は入って来やすいと思う。

6.左手で

左手でリズムをとってる君のなか僕にきけない歌がながれる *3

《う》リズムをとっている君の姿から、聴こえないけど、なにか歌(音楽)を感受している。
君の身体からみえるリズムは共有できるけれども、心のなかの歌は聴こえないから、それがどんなものかはわからない。〈ながれる〉ことがわかるだけ。君と僕は隔たてられている。
でも、その隔たりは、リズムを介してうっすらと繋がっているものだから、完全な断絶ではないんだよね。
このとき、〈きけない〉を不全と捉える読者もいるのかもしれないけど、私はそうは読んでいないです。

〔の〕うわーこれ、いますごい良い歌だなってなってる。いますごい感動してる。
最初、イヤフォンをしてるのかな、と思ったんだけど、してなくてもいいな。リズムを取るってことは、何かしらの音楽の想定がある。そこまでは主体にわかる、しかしそれがどんなものか確定することはできない、と。確定できないんだけれども、それが辛いとかではなくて、君には君の流れるものがある、と。
そこは、「隔たっているんだけども、それはさびしさとかではなく、音楽が違う方法で流れている」ということが伝わってくる、というつながり方をしている。……というところが巧みに伝わってくる。
それから〈リズムをとってる君〉の感じとかも好き。私も無意識のうちに、頭の中に流れてる音楽とかでリズム取るとかしちゃう人だから。そういうことするとね、結構たしなめられるのよ。私の場合は踊りだすとかしちゃうからなんだけど。ふふ。

《う》他人の左手の規則的な動きを見て、それがなんらかの歌だという判断に至るまでには、その時点で見ている人もリズムにのってないとできないと思うのよ。ある程度は。
〈リズムをとってる〉と言っていることに、君に寄り添うまなざしがあると思う。

〈の〉あ、〈ながれる〉で思ったんだけど、「君のなかにながれる」と「僕に(きけないけど)ながれる」って取れるね。ここ、二層になってる。

《う》ここすごい。文の上では、君と僕のあいだにおなじ〈歌〉という語がながれるね。それをいつのまにか読まされていたから不全感は感じなかったのかな。
しかも〈君のなか〉って言い方は内と外を意識させる言い方で、人間の身体の内側には血液とか流れるものがあるから、〈歌〉っていう抽象的なものがより動的なものになるように思うね。

〔の〕そうねえ、すごい……すごいねえ、急になんか、歌がいきいきしてきた……。※よろこびを噛みしめるのつ※

《う》ほんと? それは二人で話せてよかった。引用し甲斐がある。※よろこびが伝染している漆原※


7.腰のところで

《う》次の歌も君が出てきます。

腰のところで君は手をふる ちいさく さよならをするのとおんなじように *4

《う》こう、ちいさくばいばい、ってしてる。※実際に手を振ってみる漆原※
宇都宮さんは、こういう日常的で、いつのまにか忘れてしまいそうな、さりげないしぐさを印象深く切り出してくる名手だと思うのよ。マフラーの歌といい。

〔の〕ふふふふふ。※ほほえむのつ※

《う》会ったときに主体を見つけた君が、「おーい」とかっていう風に、わかりやすく手をふるんじゃなくて、ひかえめに〈ちいさく〉手を振る。それも〈さよならをするのとおんなじよう〉にだから、別れ際と同じように手を振る。
君と会った瞬間から、別れの瞬間が主体の胸を掠めるものとしてある。そこが、読んでいて響いたところ。
君が手をふる動作がちいさくても主体は気付くことができて、通いあう瞬間なのに、もう途切れることを思ってる。このまなざしのあり方。

〔の〕なんかさ、私、〈手をふる〉の後、〈さよならをするのとおんなじように〉の何をするんだろう? って思ってた。

《う》あ、完全に言い しでとった?

〔の〕そうそう、言い止しで見た。だから、これに並ぶのはなんだろう、ってことばかりに気を取られて。
それまでの、〈腰のところ〉とか〈ちいさく〉手をふることのディティールの良さはすごく取れてたんだけど、それから先で何が言いたいのか取りきれてないという私の思いが先に立っちゃって。
だけどこれが挨拶で、「別れのときも出会いのときも同じように手をふる」という補助があると、この場面がぐっとよくなる。かつ、君が一貫しているというか、行為する君のブレなさを主体が受け止めているというのもわかる。

《う》そうだね。何度も会ったり別れたりしているよね。君の手の振り方はそういうものだという言い方。この現在形からも習慣性を受け取ってる。
で、どうして「さよならをするのとおなじように手をふる」と解釈したかというと、〈ちいさく〉が差し挟まれていたから。
前後に字空きで、どちらかにかかるのではなくてどちらにもかかるように配置してある。だから〈手をふる〉ことが〈ちいさく〉で、〈さよならをする〉ことも〈ちいさく〉。ということは、最初の文に帰って来たらいいんだな、ってなった。

〔の〕こういう手のふり方をする君がどういう人なのか、とかは読んだりした? あと君の心情とか。

《う》そこは読まなかった。下の句にある主体の観察が印象的で、読者としては、主体の「他者との対峙のあり方」のほうに関心が向いちゃった。

〔の〕そっかそっか。っていうのも、手のふり方ってその人っぽさが出ると思うのよ。めっちゃでっかくふってくれる人もいれば、ちょっと小さくふる人もいるのよ。そういうところにその人の印象みたいなものが出るなあ、と思っていて。

《う》君〈は〉だから、主体が(たくさん出会ってきた人のなかでは)君はそういう手のふり方をする、みたいな読み方ができるということかな。
うーん、そうね、この〈君〉は、僕と対になる〈君〉で、とても固有性がある〈君は〉である気がしている。「会う」場面だから、かな。

〔の〕なんかその、私が下の句があまり読めていなかったこともあって、君の方にフォーカスが行ったのよね。

《う》あっ、そういうことか。君の描写から君の内面を読みたくなる読者もいるよね。

〔の〕手を〈ちいさく〉といったときに、君の控えめな感じなのか、いつもはそうではないがこのときは小さかったとか考えたんだけど、でもさよならが後にくるから、さよならするのとおなじように出会いがという読み方をすると、君がこのときだけそうしたということではなく、いつもそのように手を振っているいうところが見えてくる。

《う》なるほど。ちょっとした待ち合わせとか日常的な場面と思うんだけど、手を振って会った瞬間って感情が動くじゃない。この歌には、気がついた瞬間のよろこびがあって、しぐさがかわいくて、それでいて別れの切なさまであって、でもまた会える安心感もどことなくあって、なんと重層的、なんとよくばりな描写なんだろうか! と思っちゃう。

〔の〕ふふふふふふ。やっぱり私も切なさは感じとってる。

《う》そうだ。今日、偶然電車の中で、腰のところでばいばいって別れの挨拶をしている人を見たんだよね。この歌を読んでいなかったらそんなに気に留めなかったかもしれない。かわいかった……。

〔の〕〈腰のところ〉だから周りに気を使ったり、控えめなんだけど、ずっと近くで接続していたものが切れる瞬間の意識、もしくはその反対の接続していく瞬間の意識があって、〈ちいさく〉てもたしかに挨拶はする。そういうところ、いいよね。

《う》私は〈君〉については立ち入らなかったけど、〈君〉の内面を読みにいくと、さらに主体の切なさが思われて胸がぎゅってなる。

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