うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その4
読んでいる歌集
- 作者: 宇都宮敦
- 出版社/メーカー: 現代短歌社
- 発売日: 2018/11/27
- メディア: 単行本
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対談のつづき、まだまだしゃべるよ
12. 左手の
左手のケータイで撮るぶれぶれの右手に甘がむネコ しもぶくれ *1
※テンションが急上昇するふたり※
〔の〕これは一読して、「かわいい〜」ってなっちゃった。「しもぶくれかあ」って。たぶん主体も「しもぶくれのネコ可愛い」って思ってる気がするんだけど。
景としては、右手に猫が甘噛みしてきてて、だから左手に持ってるケータイでそれを撮っては見るんだけど、左手だし猫動くしで画像がぶれぶれになっちゃう。
そんで猫は猫で右手噛んでるから、手を咥えたまま口が「あがー」っていうふうに、顔が変形して「しもぶくれ」のような状態になってるんだよね。普通、しもぶくれな猫っていないから、猫にむかって「しもぶくれだなおまえ」って言わないじゃない? (笑)
ということも相まって、ここで一字あけして結句〈しもぶくれ〉って言ってきたから、わたしとてもうれしくなっちゃった。ここにかわいさが一気に集中する。
それでね、〈しもぶくれ〉にくるまですごく冷静に目の前の光景を見てるわけよ。〈左手〉の〈ケータイで撮る〉→〈ぶれぶれ〉な状況→〈右手〉に〈甘がむネコ〉ってていねいにきて、最後〈しもぶくれ〉で、「そこに注目するんだ!」って。結句が全体に返すというか、この初句からだんだん〈甘がむ〉まで焦点がしぼられていくんだけど、
《う》うんうん。噛まれていたらきゅーっとピンポイントに体感がくるはずよね。
〔の〕うん。でも〈しもぶくれ〉でまた景色がふっと引いて噛むところより広く捉えられる。その視点の移動で突然現れた〈しもぶくれ〉という結句にとてもうれしくなってしまった。
《う》なるほどね。でも、この〈ぶれぶれの〉は結構解釈難しくない? 全部ぶれぶれな気がして。
〔の〕どこにかかってくるかってこと? わたしは全体にかかってくる「ぶれぶれ」として読んだかなー。
《う》もちろん、全体にかかってくる効力があるんだけど、それゆえネコとじゃれている外形的な状況が定めにくいし、そもそも外形だけの語なのか……。
〔の〕あー、そうね。初句二句をうけて〈ぶれぶれの〉から〈右手〉に接続していくから、「ぶれぶれの右手」のように読めることもあって、正確に光景を読むことの難しさがあるのは私も思った。ただ状況が想像できることで、読まされてしまう、こういうことだろうなってわかってしまうよね。
《う》景じゃくて状況よね。この状況はテンションも高そうでぶれざるを得ない。
※つい笑うふたり※
《う》あと、これは〈ケータイ〉じゃないとだめだね。スマホだと多少ぶれてもピントがあって被写体が撮れてしまうと思って。携帯カメラの画素の荒さがこの歌の解像度だなー。
〔の〕うんうん。はー、とても楽しい歌でした。
13. ぶん投げた
ぶん投げたオレンジが波間に浮かぶ ベストを尽くすよ ヘイ!ベストをね *2
※のつ、下の句をなぜか語尾を上げ気味に読む※
〔の〕この歌は、☆マークつけるか迷ったんですよ。下の句が心の支えになってくれるおまじないのようにキャッチーだったこともあって、自分が言葉に引き寄せられすぎている気がしたのね。
でも少し気持ちが凹んだときに、ふっと心に現れて「ベストを尽くすよ ヘイ!ベストをね」って繰り返すと勇気が湧いてくる感じがすごくある。
歌を読んでいったときに、まず〈ぶん投げた〉という大きな動作から入る。そして投げられたものは〈オレンジ〉で、それが〈波間〉に行くことから波だっている海の水面が見えてきた。そこにオレンジが浮かぶのね。
この光景から一字空けを経て、急に下の句の呼びかけに移るので、主体はこのオレンジを取りにいこうとしたのかなと少し思いました。
《う》草野球の掛け声とかで言いそう。「ヘイ!」って。ボールを取りに行くときとか。
〔の〕うん。ただ、この上の句から下の句へ移るときのつながりをどう読むかは、実は難しいことだと思ってて。オレンジが海に浮かんでる景があって、そこに〈ベストを尽くすよ〉〈ヘイ!ベストをね〉と繰り返すように呼びかけていく。
この呼びかけが、何に対してどう働きかけようとしているのか、までを確定させることはできないんだけど、でもこの軽やかさになんだか励まされている自分がいるんだよね。
《う》やっぱり、気持ちが高揚するよね。
〈ヘイ!〉という語彙に、スポーツとかの仲間を意識した発話が蓄積されていることも励まされる要因なのかも。
〔の〕うん。〈ベストを尽くすよ ヘイ!ベストをね〉。ふふふ。
主体としてはあくまでもベストを尽くしにいく心持ちなわけじゃない? 尽くせるかは別としてさ。気持ちの持っていき方としてベストを尽くそうとする。目指してるのが「ベストを尽くそうとする」こと。
《う》〈ぶん投げた〉ことにベストを尽くした、って言ってるわけじゃないもんね。
〔の〕そう! これからの何かしらにベストを尽くしていこうとしてる。ただそれが何なのかはわからないままだから、いったいどういうことなんだと思って、でも主体の心の有り様にすごく励まされる。
《う》この歌、オレンジが波間に浮かんでるけど、だからといって広大な海の景色が浮かぶわけではなくて、ただただ果物のオレンジ色がピンポイントに見えてくるんよね。そこが歌を鮮明にしている点でもあり、でも、その効果を評する上で不思議っていう言葉に回収させるのも違う……。
〔の〕たしかにオレンジがピンポイントに浮かびあがってくる感じはあるね。例えば「海に浮かぶオレンジ」って言われると、もっと広く俯瞰で見るような海の景色が見えてくるかも。でもここでは〈波間〉だから、オレンジが立ち上がってくるなあとは思った。なんでだろうな。
《う》この歌、下の句が発話になっている、つまりなにか行為や状況があるわけではなく、言葉だけの世界になっている。景がこれ以上拡張しない。だから読者の視線が〈ぶん投げた〉方向に、上の句でうたわれている以上には踏み込んでいかない。
〔の〕歌の頭から風景が描き出されるとき、それが比喩でもなく、かといって景色そのものでもなく、映画館の大画面に映し出されているような「イメージ」として現れると思うのね。
風景が映像的に映し出されて、それから一気に転換して発話が出てきたり心情が出てきたりする感じがあります。
14. この春の
この春のうすら寒さをどうしよう タンスにTシャツばかりあふれて *3
〔の〕またTシャツの歌です(笑)この「どうしよう」って困ってる感じが面白くて。〈春のうすら寒さ〉だから、Tシャツではやはり寒いんですよ。
《う》Tシャツを重ねても防寒性はないね。
〔の〕袖がないとね。Tシャツにも長袖タイプがあるけど、ここでは寒さをどうするかに考えが向いてるので、半袖のTシャツばかりあるんだと思う。
ここで印象的だったのが、主体は衣服を何一つ持っていないから困っているのではなくて、衣服がタンスにあれふれているほどあるのにも関わらず、必要なものがないことが問題になっていること。
もし何一つ持っていなければ、防寒のために服を買うしかないんだけど、量としてそれなりに服があるがゆえに「あるものでどうにかならんかなー、いやどうにもならんのやけどなー」っていう心の動きがあるんじゃないかなと思うんですよ。
あと〈うすら寒さ〉も、ちょっと我慢すれば乗り切れそうだけどやっぱり厳しそう、という微妙なところを突いてくると思った。
《う》〈うすら寒さ〉って、この歌の中の表現をみるとここだけ異質じゃない? 外気の寒さだけでなく、心理的なものも写しとる言い回し。
それで、心理的な寒さだと「わびしさ」のニュアンスが出てきそうなんだけど、ここではTシャツの語が効いてきて、ちょっとポップな景になる。
〔の〕なるほど。「わびしさ」のほうへいかないのは、〈ばかりあふれて〉という過剰さの表現が効果的なのかも。ここで少しコメディっぽい雰囲気になるというか。
《う》ある不足を言うのに、他の過剰を強調してるもんね。下の句で心理が戯画化される感じがするよね。
〔の〕だからといって、ギャグにはいかない、ギャグにはしない。
《う》全体に含みがある言い方で、わかりやすく「ここでずっこけてください 」ということではないもんね。
〔の〕うん。〈うすら寒さ〉という独特な語を含むことで、諧謔*4のテイストに向かうとより誇張されて、ともすれば歌のまとまりを崩してしまう可能性がある。でもそこまでいかずに「どうしよう」というところで引きとどめてあるのが、この歌のコアだと思う。
15. 嫌なやつに
嫌なやつになっちゃいそうだよ もうじゅうぶん嫌なやつだよと抱きしめられる *5
《う》これね〜!
〔の〕相手がいる状況で、主体は「自分がなりたくないと思っている『嫌なやつ』になってしまいそうだ」というちょっとした自己嫌悪にある。
〈なっちゃいそうだよ〉というところにはちょっと自意識が表れてて、それは感情が波立っていないときは「ごく普通にいいやつ」という自負に基づいた自己イメージが主体にあって、それがちょっと揺らぎ出したと主体は思って発話した。
そしたら、相手から〈もうじゅうぶん嫌なやつだよ〉と全部ひっくり返されてしまって、その上で相手に受容されるというどんでん返しが一首の中で起こるんだよ。思わずおおおってなっちゃった。
《う》「自己イメージが揺らぐ」という読みについてうなずける反面で、いまは〈嫌なやつ〉ではないという含みを「いいやつと自認」しているとまで読んでいいかは迷う。
唐突に今現在の揺れているところから話を切り出していることにも読みどころがあるような気がして。それは、〈なっちゃいそう〉の語気の負うところでもあるんだけど。
「てしまいそう」にある不随意さの含み、しかもくだけて「ちゃう」だから、よりかよわいニュアンス。
なので、自意識が発話によって外部に出てきたことより、主体の視点が自分自身の弱さに向かっていること、内省しようとしていることに重きを置いて読んでる。
そっから先の読みはちえこさんと同じかな。他者が登場してばっさり斬られる。内心だけの出来事とも読みうるけど、自分の視点の先を行ってるから他者と思う。そこで、さらに抱きしめて弱さもまるごと肯定してくれるんだから、読者としてもその人には「敵わないよね」と思っちゃう。
〔の〕今言ってもらったみたいに、自分の視点を凌駕する人が登場することはやっぱりとてもよくって、その人が凌駕しつつ主体を受容するにいたることが、うわーすごいなあって思った。
《う》相手、器が大きいよね。
〔の〕うん。それで、私が自意識という言葉を使ったのは、やっぱり相手がばっさり斬ってくる状況があって、その斬られっぷりに見合うのは自意識ぐらい強固なものというのが念頭にあることが大きいかも。
《う》なるほどね。自分では覆しがたいものを自分より先に察知していて、しかも大きな肯定をくれるところに、読者も主体に感情を移入して安堵しちゃうね。
つづく