カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その3

読んでいる歌集

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

対談の続き

〔の〕えーと、次は「どう読もう?」って思った歌にいきます。

9. 訊かれれば

訊かれればすっとんきょうな冬晴れに見てない映画の感想を言う *1 

〔の〕まず初読、「どういう心持ちなんだろう」というほうに私の意識はいってしまうんだけど。

まず景としては「あの映画どうだった?」って尋ねられて、主体は見てないのに、あるいは見てなくても「いやーそれ見てなくて」とは言わず、「いやー、あれ〜〜だったよね」って語るわけじゃない? その行為をどういう風に受け取るか、主体がどういう動機でこの行為にいたったのか、を読者が「読みにいく」とき、その手がかりが〈すっとんきょうな冬晴れ〉にあるのかなあって思うんだけど。

それで、この〈すっとんきょうな冬晴れ〉というのにも困ってて。なんとなく思い描くことはできるわけ。西日本は冬場曇ってることが多くて、そういう日が続いたときに「今日えらい晴れたね」ってつい言ってしまうような晴れの日。こっちの予想以上の晴天に〈すっとんきょうな〉っていう形容になるのかなあ、どうなんだろう。

でさ、この〈すっとんきょうな冬晴れに〉というのが〈訊かれれば〉と〈感想を言う〉あいだに差しこまれるから、なんか動機みたいにみえるんだよね。「太陽が眩しかったから人を殺した」みたいな。

《う》なるほどなー。個人的には、文語ユーザーということもあって、〈エ段の助動詞活用語尾+接続助詞ば〉の音がくると、口語とは文法が違うと分かっていても、意識の中に「〜ので」という意味が入ってきてしまうんだよね。

だから、この場合は「訊かれたので→感想を言う」と直線的な回路をつないでしまった。それで〈に〉を原因・理由で取るのは過重に思えて。一人で読んだときには〈冬晴れ〉を動機として読めなかったんだよね。

で、〈すっとんきょうな〉は〈冬晴れ〉にも〈感想〉にもかかっていると取れる。
「すっとんきょうな感想を言う」。うん、見てなきゃすっとんきょうな感想になるよな〜、って納得した。

〔の〕あーそっか、そう読んだほうがすごく入ってくる。そうすると〈冬晴れに〉の「に」は場所を示すね。

《う》そうそう。〈ずるいなあ*2〉の歌に出てくる〈つきの光に〉の「に」と同じと思って読んだ 。

〔の〕うん。あーでもなんだこの動機感は……。結局この歌を読んで、全体的にすっとんきょうになっていく感じがすごいなあってなったのね。歌のなかで行われる行為が、どんどんすっとんきょうなようにうつる感じ。というかびっくりしてばっかりだなわたし。すっとんきょうを短歌で使うのびっくりする。

《う》動機説、好きだな。フレーズのあいだの挿入句は宇都宮さんの歌の構造の特徴でもあるし、冬晴れを背景に下げるより、動機と読むと冬晴れがどんどん心のなかに入ってくるところがいい。

10. 文庫売り場で

〔の〕あとなんだか気になるシリーズだと、

文庫売り場でやっぱりふだんからメガネかけなきゃと思う 前も思った *3 

〔の〕状況としてはそんな想像に難くないと思うのね。なにかのタイミングで、あー事前にこれしとけばよかったなっていうのはよくあることで。それを何度も繰り返してしまうことも。主体は「ふだんからメガネかけなきゃ」っていうのを、文庫売り場にきて思うじゃない?

《う》文庫本の背表紙の文字が見えなかったんだろうね。

〔の〕そうそう。それで行くたびに「メガネかけてないから見えないやー」って思うんだけど、でもふだんからメガネかけとかないと視力の悪さを忘れてるぐらいの目の悪さで、だからこそふだんからメガネかけとかなきゃだし、なんなら前もそう思ってるじゃん自分、っていうのが見えてくる。

この歌は、一首のなかに二つの文章があるように感じたのね。だから一見、散文との境界におけるギリギリな感じがした。

《う》ほー。これさ、すごく不思議なのが時制。散文性ということに関係するかもしれない。
はじめの文末は〈思う〉で現在形でしょ。だからひとまず現在のことを言ってるように受け取る。
でも、そのあとの文末に〈思った〉というのが出てくることで、直前の〈思う〉が過去になる。だから〈思った〉は過去じゃなくて大過去のような受け取り方になる。
しかも、そのあいだの一字空きに時間の停止感まで挟まれていて。これはいったいなんなんだろうね。

〔の〕さっき「二文あるみたいに見える」って言ったけど、今言ってくれたように、こういう時間の可塑性というか変質させる力は短歌だなあって思ったのね。あまり踏み込んだことは言えないんだけど。

《う》小さい字が読めない今の私が、文庫売り場によって、過去……たとえば一週間前の小さい字が読めなかった私に戻ってる。文庫売り場がタイムマシンみたいになってるよね。

〔の〕たしかに……! 〈文庫本売り場〉という空間が時間にはたらきかけている...…!※発見についよろこぶのつ※

《う》この一字空きで時を駆けたよね。時を駆ける字空き(笑)
そういえば「散文ぽさ」って、例えば〈やっぱり〉とか〈かけなきゃ〉みたいな言い方から出てくるものだと思う? ちえこさん的には

〔の〕うーん、どうだろう。散文ぽさのこと考えてるんだけど。
この歌ってわりと因果関係、というか起承転結は一本筋が通ってるじゃない? つまり、

(来店すると)文庫売り場で(背表紙の文字が小さくてよく見えないから)やっぱりふだんからメガネかけなきゃと思う (このことは)前も思った

っていう省略がすんなり読み取れる。

《う》えっ、そうかな。省略を自然と補うようにして読ませるのはむしろ短歌的じゃない? そのあたりを丁寧に言うのが散文、という印象が私にはあって。

〔の〕うーん、省略を読むのは短歌的な読み方の態度ではあるんだけど。なんだろう、歌において展開されているロジックが、主体の内では必然性を帯びてるんだけど実は飛躍があるっていうことはままあるじゃない?

そのような飛躍のケースと比較すると、「文庫本売り場で、本の字が小さくてみえなかったから、メガネかけとかなきゃって思った」というのは、理由として思い起こしやすいかなと。「散文ぽい」というのはそういう論理の道筋の見え方に対しての印象なのかなあ。ちょっと迷路に入ってきた……。

あとは〈思う〉・〈思った〉のあとに「。」、つまり句点がつけられそうという点では、表面的に散文のような佇まいというか装いがあるんだけど、でも話してきたようにやっぱりここでやってることは明らかに短歌で。それがすごく不思議でした。

【一時間経過したので、ここでちょっと休憩タイム】

11. 夜明け前

〔の〕さて、再開しまして、この歌からいきます。

夜明け前 あなたの語尾がやさしくて本気で怒ってるんだと思った *4 

《う》これね!

〔の〕一読して、うおーって思った歌です。

人って怒ったら普通語調とか語気が荒くなるじゃない? でもこの〈夜明け前〉のときの〈あなた〉はそうではなくて、語尾が優しいゆえに、よりいっそう「わー、この人めっちゃ怒ってる」って怒りの本気度を感じたんだと思って、そういう裏腹に表出する感情の発露を捉えた歌として読みました。だから状況としてシビア・シリアスだと思った。

《う》あっ、そうなんだ? 私の読みだと〈夜明け前〉という時間からの導入があって、〈語尾が〉によって会話している光景が見える。だから夜明け前まで語り合っていた状況を想定した。そこに〈やさしくて〉という語がくると「諭す」感じがして、〈怒ってる〉は〈あなた〉の感情である「怒り」とは捉えなかったな。

〔の〕なるほど、そういう読み……!※はっとするのつ※

わたしは内なる感情と表出する態度の裏切りとか相反してしまうこと、だったり、そういうタイプの人を想定しているから、〈怒ってる〉をそのまま感情の怒りで捉えてて。だから〈本気で〉というのは、怒っていることの強調だと思った。

でも〈やさしくて〉・〈本気で〉から読みを引き出すと、感情ではなくて〈怒ってる〉という表現でいうことのできる行為、「叱る」「説得する」「諭す」が出てくるってことだよね。

《う》そう、感情の温度としての怒りというよりかは、行為だと思って。この〈本気で〉だけど、ここに相手が本気で向かってきてくれることの手応えとかよろこびが、「やさしい」という受容にも表れていると思うなあ。

〔の〕ちなみにこの〈思った〉なんだけど、〈本気で〉からの読みだと怒ってる行為への肯定というか受け入れになる。一方、〈怒ってる〉読みだと「私はそのように見なしたんだけど、実はそうじゃなかったっぽい」っていう風にもとれるなと思っています。

《う》なるほどー。これは結構読みが割れたね。

〔の〕うんうん。ありがとう、読みが深まります。では次、楽しい歌です。

つづく

*1:P.39

*2:つきの光に花梨が青く垂れてゐる。ずるいなあ先に時が満ちてて /岡井隆『ネフスキイ』

*3:P.63

*4:P.69