カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(3)Re:ちえこさま

​のつ ちえこ さま

台風は過ぎたのに、またも雨。
思い出というわけではないのだけれど、台風の日には、危険と隣り合わせの解放感があって、傘という防具なんて放棄して積極的に自然に降伏してしまいたいという気持がわいてくるんだよね。
​ただし荷物と靴さえだめにならなければ、という留保付きで。

傘の骨バキバキに折れ現れたあなたはたのしそうに笑った/竹中優子*1
(「未来」2016年8月号 )

〈あなた〉が笑っている気持ちがなんとなくわかる。こういう突発的な出来事には、身を任せて笑うしかない。
ちえこさんが見た公園のカラスも、自らの危機をコントロールすることを放棄して、暴風に降伏することを面白がっていたのではないか、という気がする。
​あ、短歌の話のまくらに短歌ってまずいね、ご飯のおかずにパエリアを出すのとおなじだ。手紙魔への道は険しいな。


では、歌にいきます。

またしても時代が俺に追いついて何周遅れかもう分からない

1.本当に分からないのか、分かろうしていないだけなのか?

人が〈分からない〉というときには2通りある。
本当に理解が追いつかないのか、ただ分かろうとする気がないだけなのか。この歌の下の句はどちらなんだろう。これを考え始めてから、歌の読みが変わったんだよね。だからそこから話を始めるね。
上の句から下の句へ順に読んだ初読の印象では、周回遅れの認識はあっても、それがどれだけの遅れなのか把握できないくらいひどい遅れを取ってしまったのだ、と素直に読んだ。
でも、これだけではわたしもちえこさんと同じで、なんとも謎めいた気分が消えなかった。
ここで、主体の人生での遅れを陸上のトラック競技の周回遅れになぞらえてある下の句を念頭に置いて再読する。
すると上の句から、

主体からわざわざ並走しようとしなくても、循環のなかで時代から近づいてくる瞬間もある

ということが判明する。
こうなると、〈分からない〉とは、
周回遅れのでもどうせそのうちまた横並びになるときが来るから、どれだけ遅れているかは数えていない
=分かろうとしていないだけ、という含みを念頭に置いた読みに変質していったんだよね。

2.挫折感と反骨精神のデッドヒート

さらにいえば、主体は時代というものについて、遅かれ早かれ時代のほうから〈俺に追いついて〉くるものであって、こちらが追いかけるものではないと初めからタカをくくってたフシがあって上の句を言い出したのではないかな。
ここに、時代に迎合してたまるか、という反骨的な意思を受け取った。
この歌はいわゆる「自虐ネタ」なんだけど、これが笑いになるのは、上の句の自信ありげな口ぶりで作り出したミスリード*2を下の句でひっくり返す落差だけではなく、「時代についていこうと必死になる滑稽さ」を前提としている(だって、ほんとうに危機的な状況は笑えないよね)。
それゆえ、笑いの対象は、自分自身だけではなく人間社会全体に及ぶニヒルさがある。これが、ちえこさんのいう「ドライな目線」の正体であり、主体の反骨精神の裏付け。
かといって、主体は、ニヒルを決め込んで状況を俯瞰して楽しんでいるだけでは当然ない。笑いのネタにしないと自分を保てないような、ギリギリの精神状態を抱えている。
自分の生き方でいいのか、もっと世間の流れについていくべきなのか。上の句には自分のペースを守る自信家の主体、そして下の句には自分自身の遅れに焦る主体がいて一首の中でせめぎ合っている。
ここまで読んで、そうか、と気付く。
時代と主体がトラック上で競っているように見えるのは叙述の彩。本当にせめぎあっているのは、主体の外側にはなく、内面だった。
やっと歌の全体像が明らかになった。これは、やられた。
挫折感と反骨精神のデッドヒート、走者は俺と俺。なんて孤独なかけっこ。パラニュークの『ファイト・クラブ』という小説*3を思い浮かべるとわかりやすい。
しかも、口語特有の曖昧性を保った現在形で書かれているから、特定の「いま・ここ」あるいは「かつての瞬間」への帰属がなく、一首の中の日常から離れて永久に循環する。
読めば読むほどに、上の句を読めば下の句へ、下の句からまた上の句へ押し返され、せめぎあいは決着がつきそうもない。

3.比喩ナンデス!

さて、もう一度話を戻すね。
この歌の主体は時代と競っているわけではなくて、自分自身の内面と競っていたのだった。これはなにの取り違えかというと、心象風景をまるで実景のように取り扱っていた点にあるんだよね。
この叙述トリック(?)が可能になるのは、上の句の慣用句を比喩のまま読ませることに成功しているからではないか、と思う。
上の句の〈時代がAに追いつく〉という慣用句は、時代に生きる人々、その人々の価値観、評価などの語を「時代」によって代表させている提喩という比喩で、ふつうはこれを「後から再評価された」という意味の部分しか受け取らない。
このことから、慣用句は死んだ比喩ともいわれる。
だけど、掲出歌では、この慣用句が繰り返し使用されるうちにそぎ落としてしまった比喩としての側面が前景化していて、時代と俺がトラックを走っているような生々しさがある。一般的な語句の使用からずらすことで、かえって語句の本質を呼び起こすのは、とても興味深いよね。
本当はすべての言葉にはその歴史性が内蔵されているはずだけど、なかなかそれを意識するのが難しい。
慣用句には、これまでに語が使用されてきた痕跡が分かりやすい形でのこされていて、これまで対象がいかに扱われてきたか、その本質は何だと考えられてきたか、わたしたちが生まれる前からずっと語が蓄積してきた歴史性をコンパクトに知ることができる。
こうした過去の知の所産をもたらしてくれるよりしろとして、慣用句・紋切り型が好きだよ。温故知新ということで、わたしも、語の蓄積してきた歴史性には敏感でいられたらいいな。


漆原 涼

今回取り上げた歌の出典:山本左足、うたらば採用歌 第64回テーマ「後」、2014


*1:第六十二回角川短歌賞受賞!

*2:間違った読みに誘導すること

*3:どんな作品かって? ファイト・クラブ規則第一条、ファイトクラブについて口にしてはならない。ファイト・クラブ規則第二条、ファイトクラブについて口にしてはならない。