カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(1)To.漆原さま

漆原 涼さま
お元気ですか? 台風が狙ったように週末に来ますね。ちなみにこれを書いている時点、終日ざざぶりの雨でした。窓から外みただけで、あ、これは無理だなって出かけるのは早々に諦めてしまうような。

だからといって家にこもって何かするというわけでもなく、だらだらと過ごしていたら気がついたら1日が終わっていて、そういう時は無責任に雨を恨んでみたりします。私、晴れ女だから雨の抒情がいまいち苦手です。実は。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

前にも言ったような気がするけど、わたしが現代短歌なるもの、それもニューウェーブなるものに出会ったのは、今から10年前の古本屋でだったんですが、そのときの一番の衝撃がこのサバンナの象の歌でした(というかわたしの中では「サバンナの象のうんこ」の歌というのが正しい)。

同じような?衝撃でいうと、谷川俊太郎の「生きる」もそうなんだけど、でも「生きる」は詩ってこんな風に書いていいんだ、こんな形をしていていいんだ、っていう安堵というか愉快さがあった。

それに比べて、「サバンナの象」の歌は、短歌マジかよ、マジかよ短歌!って下の句ができるくらいの、そういう出会いでした。

だから、わたしはこの歌を見てからなんども声に出して衝撃を確かめてみた。声に出すとよりいっそう愉快になりました。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ

まず、この歌を読んだ時に「サバンナの象のうんこ」ってところで、9割ぐらいの人は「マジかよ」ってなると思う。
「うんこかよ、それもゾウの!」
そして、「聞いてくれ」という呼びかけ。「聞けよ」という強い命令形ではないけれど「聞いてほしいな」という控えめな願望でもない(ここんところの微妙なニュアンスを表現する言葉ってあるのかな)。

とにかく呼びかけられて、立ち止まるとその後に続く、

だるいせつないこわいさみしい

え、超なんとなくじゃん笑 って一瞬思うんだけど、後からじわじわくる。
この言葉にはまりきった感情の立ち上がり方が、あいまいなくせして自己主張してくる感じ。

多分それはこの「だるいせつないこわいさみしい」が、
身体的に直接くる感じ→切なさという少し薄い感情→怖いという強い感情→さみしい、という落ちる感じで、緩急がかなり巧みに使ってある(最初口ずさんでたら順番がよくわからんくなってたけど、でも入れ替えているうちに明らかにこの語順が一番心地よいんよね)。

だから気づいたら感情にとらわれてて、だからわたしは誰かに聞いてほしいんだって、そこで他者を求めてることに気づく。

でもこんなあいまいな強い感情、そこらへんの人に言ってもね。めんどくさいよね。

そんときのちょうどいい距離感が「サバンナの」ゾウで、やっぱり近場の動物園のゾウではない。
しかもサバンナの象は生きてるけど、うんこはそうではない。

聞いてくれって呼びかけてるのに、言葉にして返事をしてくれない相手を選んでる。

ふと考えてみると、聞いてほしいことって、必ずしも言いたいことではないと思う。積極的には言わないけど、誰かに伝わると自分が楽になったりする。そういう微妙な一瞬までが、まるっと31文字込みかよ!マジかよ!

っていってたら、雨上がったみたいです。今週末は台風来ないといいな。晴れておくれ〜(願望)。


のつちえこ

今回の取り上げた短歌の出典:
穂村弘『シンジケート』、1990年、沖積舎
シンジケート