カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

第1回 歌人もすなる一首評というのをひとまずしてみんとてするなり(6)

今月にわたりお送りしておりました第1回の最終回です!最後まで駆け抜けます!

目次

取り上げた短歌

抱くとき髪に湿りののこりゐて美しかりし野の雨を言ふ

1.初読感想「イメージの立ち上がりから広がりへ」

(う)短歌は上から下に読んでいくから、野の雨まで実景として想像しながら読むんだけど、三句目までが実景なんだよね。

(の)結句で「言ふ」とくるから、そこでやっと野の雨が比喩*1だったんだ、ってなるね

(う)そうそう。シャワー浴びた後にちょっと残ってる髪の湿った質感が野の雨を思い起こさせたのかなー、って気付くのはすべて読み終えたあと。
だから、読みながら髪と野の美しさが同時に実景として立ち上がってくる。自然と両方のイメージを喚起させられちゃうんだよね。

状況としては作中主体が、恋人を抱きしめているときのことなんだけど、
男性が女性を、あるいは女性が男性を、というふうにどちらがどちらを抱いてるかっていうのはわからなくて。
この抱きあってる恋人同士の、存在が未分化になってしまっているような光景、本来別々のものが一つの形としてある感じがすごく叙情的だな。絵になるよね

(の)この「どっちがどっちに言ったのか?」っていうのは、歌からイメージを展開させる上で私も気になった〜。
どうしても「髪の毛」ってパターン的に女性と結びつきやすい。たとえば、百人一首の「長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものこそ思へ」*2とか古来から本当あるじゃない。だから自然と、作中主体が女性を抱きしめていたときの髪ってイメージになった。
でもよく考えたら、そこまで限定してないし、むしろイメージの焦点を当てたいのは性別ではなくて「湿った髪」と「雨に濡れた野」の美しさなんだよね。
そこには、美しさそのものの広がりまで感じちゃうような

2.形容詞をどこまで使う?

(う)そうそう。恋人同士の様子も、野の雨も、それがどういう関係で、どういう美しさを思い浮かべるかは読者の裁量なんだよね。
でも、美しい・綺麗って言葉は歌の中でも用いにくいじゃない?
普通だったら、その美しさを美しいって言わずにどう表現するか、であーでもないこーでもないって言って作るわけだし

(の)やっぱり、形容詞の問題って描写する上ですごく大きなテーマになってくるよね、どこまで説明したらいいんだろうみたいな。
たとえば、私の気になる言葉として「艶めく(つやめく)」って言葉があるんだけど、本来その艶めきを何かしら置き換えていかないといけないのでは、って思うわけなのね。
ピカピカにコーティングされたネイルでも、ニスの塗られた年季の入ってる重厚なテーブルだって、艶めくわけじゃない。
艶めくという言葉以外で表現できるツヤ感が絶対あるはず。わたしはそこから出発したいって思う。もちろん艶めくが一番適切だって場合もあるんだけど笑

3.歌の器

(う)なるほど。基本的な形容詞で済ませるのは勇気がいるもんね。
ところで、話戻るんだけど、「雨を言う」のところ、私、女性のほうから男性に向かって言ったと読んでた。
短髪の湿った感じが、短い草の生えている野の感じに似ていると思って。

(の)そっかー、わたしは逆に、男性から女性に言ってるのかなと。背の高い草がなびく野だと女性の長い髪って感じじゃない?
湿っているところに光が当たって反射したきらめきとか。天使の輪みたいな

(う)象徴をどう結びつけるかで、思い浮かぶ像が違ってはくるね。
いずれにせよ、「髪の湿り」「美しい野の雨」の語の結びつきが美しい

(の)「美しかりし野」ということばに、広がりがあるもんね

(う)そう! 例えばこれが「美しい野の雨のようだ」だったら、また全然違った印象で、断定してしまうと本当にくさくなってしまうと思うのね。
そうじゃなくて「美しかりし野の雨を言ふ」というところが、ポイント。
直喩だと情景の言い換えに重点があるけど、これだと抱かれていた人の心象だってことになるでしょ。
だからこの表現は、発言者の内面の世界に注意を向けさせるような気がする

(の)この関係性の中で許されるから言えるってとこもちょっとあるかも笑 

(う)この、「抱くとき」っていう鷹揚な始まり方。そこに二人の許しあってる関係性を感じる。
抱くとき、これ以上の説明の言葉を必要としない関係性なんだ、と主体は認識しているということで。
それにしても、まあ、私的な物語には一切触れない歌だね

(の)だから、個人の出来事って感じがしないのか。器が大きいっていうか、包容力ある歌って感じがするもの。でも精緻に作りたい人は放り投げじゃない?ってなりそうかも笑

(う)これもバランス感覚だよね。どこまで説明してどこまで省略するかっていう。

4.歴史性と新しさ、そして私たちはどこへ行くのか?!

(の)これって誰の歌?

(う)これは岡井さん

(の)ばりすごい人きたー笑

(う)私はいわゆるライトバースの岡井さん*3より、アララギ*4的な方法論を軸に現代をうたった岡井さんが好きなんだよね。
短歌って、「57577」って形が決まってて、その中でとかそこからどう発展するかとかを考えていくと、つい真新しい表現に注目しがち。
新しさも大事なんだけど、和歌・短歌が歴史的に拓いてきた表現は資産として切り捨てずにいたいなー

(の)有名な短歌以外の、生き生きとしたイメージをもたらしてくれる短歌ももっと探っていけそうだよね

(う)本当に力のある歌はハッとさせられるからね。
たとえば、歌会に出ているときもそういう瞬間があるんだよね

(の)こういろんな歌に触れると、いろんな歌を詠みたいというか作りたくなる。
その人たちを超えられなかったとしても、いい歌は作りたいよ

(う)好きにやっても、「57577」である以上は短歌に収まってると言えるわけで、それはやっぱり定型の魔法よね。
その中でどういうことをやってくかってことが問われるんだけど
大きく分けても口語でうたう人がいて、文語でうたう人がいる、って差異があるから面白い

(の)一口に言っちゃうと「57577」なのにねー!

(う)自由だからこそ、いろいろ考えてしまうねー

(の)悩ましいことばかりなのに、なぜ短歌なんかしているんだ我々は笑

(う)なぜなんだ笑 ストレイシープ*5だ!

今回の短歌・出典

今回の取り上げた短歌の出典:
岡井『斉唱』、1956年、白玉書房

【対談後記】

(の)無事、今月にわたる第1回を終えることができました!
お疲れ様でした!
(の)というわけで、さっそく来月から始まる第2回についてですが、第1回・その(3)で口ずさみたい歌の話が出ましたので、これをテーマにしたいなと。
(う)おー!楽しそう!
(の)それでですね、第2回は往復書簡系対談にしようかなと
(う)お手紙みたいな感じで評しあうってこと?
(の)ですです
(う)なるほどー!やってみましょう
(の)手紙ガール、流行らんかな笑

今月最終週は、個人評を掲載予定です。引き続きよろしくお願いいたします〜〜!
また第2回は十月より更新予定です!こうご期待〜〜!

*1:たとえの意。サバのような形をした雲とか。

*2:待賢門院堀河 - Wikipedia

*3:ヘイ龍(ドラゴン)カム・ヒアといふ声がするまつ暗だぜつていふ声が添ふ に代表される旧かな口語を特徴とする作品

*4:近代短歌の基礎を作った短歌の結社。写実・リアリズムを重視

*5:言わずもがな「迷える子羊」の意 by美禰子/夏目漱石三四郎