カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

第1回 歌人もすなる一首評というのをひとまずしてみんとてするなり(5)

目次

取り上げた短歌

Jeわれ penseおもう, doncゆえに Jeわれ suisあり ルマンドを食べる おいしい すごく とおもう

1.初読感想「変な歌」

(の)今回はちょっと不思議感ある歌を引いてみました

(う)確かに変な歌だよね

(の)これが短歌として変なのって、実はフランス語になっている上の句のせいじゃない。
「おいしい すごく とおもう」という日本語に変さを感じる

(う)最後とか片言だよね笑

(の)普通、何か食べたら、「このお菓子、すごくおいしい!」って表現するよね。
でも「おいしい すごく とおもう」って言うことによって、ふとルマンドを食べたときの「おいしいなあ、それもすごくおいしいなあ」と「おもう」。この「おもう」までしっかり言ってしまうのも含めて、片言っぽさというか違和感がある、変な歌だなあって思うんよね

(う)語順とか、隙のある歌い方にみえて、かなり緻密に作ってある歌だと思うよ

(の)そうなんよ。まず、je pense〜 の流れで、ルマンドっていうフランス語っぽい音をチョイスしてあるところ。
ちなみにルマンドって創業者本人が「フランスの高級菓子っぽい名前を」ということで出来た造語らしいよ

(う)そうなんだ!笑 
前々回の続きというわけではないけど、音としても、ルマンドはドンクのD音とはまるからそういった意味でもルマンドじゃないとダメだね

2.考える私と食べる私

(の)「我思うゆえに我あり」と「私は食べておいしいと思う」
この構造って、最初「思考する私が、私そのものの存在を証明している」から出発して「行為する私の存在があることで、私は思考する」という対比が作られていると思うのね

(う)もう一度「思う」に収斂*1していくところはうまいよねー!
初句の「思う」から結句の「思う」までの間に、主体の思考の逆転が起きてるよね。
この有名な「我思う、ゆえに我あり*2を言ったのはデカルト*3で、デカルトは人間の身体と思考を別々のものとして切り離したわけじゃない?
でもこの主体はルマンドを食べることで、自分の体を通して自分の思考を認識してる。体と頭の連動が歌われていて、そこでまた逆転が効いてくるなあ

(う)なんだか思考することそのものを見つめてる感じがする。そもそもナマの思考ってそんなに論理的に展開できるほど整ってるわけじゃないしね

(の)すごくおいしいじゃなくて、おいしいすごくという表現からイメージすると、「(食べて)あっ、うまー」ことでしょ。
何か食べておいしい→すごくって思うような時って、自分の極限状態じゃないけど、疲れてる時とかとにかく自分の思考がひどく低下して私が感じられない時だと思うのね。論理とは全く別次元の。
そういう時に何か食べることであーおいしいなって思う自分を取り戻したりするじゃない

(う)フランス語っていうちょっとインテリ感のある外国語から始まって、漢字交じりの日本語になって、最後にはひらがなになってしまう。この思考の退行がいいよね

(の)退行している笑 そこも不思議さポイントかもしれない。
この歌の状況って、人間は「論理的」に「考える」ものなのだという前提からは退行していってるけど、 
そしたら、この対比としてプログラミングされてロジカルがすでにあるAIなんかは、逆に知識から出発して行為して実感を得るみたいな、こんな感じで世界を認識し始めるんじゃないかな

(う)システマチックなところから始まって、人間らしいところに落ち着くという感じかな?
そしたら、人間らしさって論理的で高度な思考じゃなくてこういう片言なの?笑

(の)でも生きていく上では、原点はここにあるよ笑
人間なんだかんだ言って、最終的にお腹すいたとかに支配されてると思う。その上、場合によってはお腹すいたでもなくて、イライラするー、あっお腹すいとるんやなー自分だったりするじゃない?思考ってなんなのかってくらい後回し。
でもこれって人間として正しいのかな……?

(う)まあ人間も生き物だから。生き物としては絶対正しいよね。お腹空いてることに気づかなかったら死んじゃうもの

2.近代の私と現代の私

(の)この歌を読んだ時に、わたし茂吉の歌を思い出したのね。

ただ一つ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり*4

茂吉の歌は、食べるのもったいないってとっといた残り1個の桃を食べたときに、いやあ本当うまいよなーと思って食べ終わる、っていう歌。
いかにも人間らしいじゃない? 茂吉可愛すぎかよって笑

(の)それで、どちらの歌も、食べることを通して現れる「私」がいる。
でも、人間にとって普遍的な食べることを通して現れる「私」は似ているようでいて、全然違う存在のようにも思える。
これは近代の私と現代の私(のようなもの)の違いかもしれない

(う)茂吉の歌は、たった1つの桃とたった1人の「私」の一対一対応があるね。

(の)でも、そもそもルマンドの歌は、je pense〜 って我(われ)〜、って言っておきながら私は不在な気もするのね

(う)ルマンドは大量生産品だし、たぶんどのルマンドでもいい。それを食べる私もだれだっていい。
思索的態度から、大量生産品に「うまい」っていう感想に至るのは、即物的だし、人として没個性的な側に落ちて行っている感じはする

(の)読みとしてはそういう現代の没個性的な私、という方向で歌のイメージを展開させる方がしっくりくるのかもしれない。
でも一度サラッとした違和感から始まって、何かすること、とりわけ本能に訴えかける「食べる」ことを通して、ふっと人間的なものに触れながら、それでいてどこか私とは遠いような、ぐらぐらしてくるような感覚が、何度が読むうちにハマってしまって。
しかもそれがたった31音の中で立ち上がってくるのが面白い

(う) あくまでも身体的行為を経ることで、私が意識している、思考している、というところにこようとしている感じがあるよねー

(の)見れば見るほど面白い歌です

今回の取り上げた短歌の出典:
三上春海「終わりとそのあとで」、『北大短歌第四号』、2016年、北海道大学短歌会

*1:歌としてイメージがまとまること

*2:別名「コギト エルゴ スム」

*3:かなり昔の哲学者。『方法序説』という本にこの言葉が出てくる

*4:「白桃」所収。1933年 (昭和8年)作。