第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(2)Re:うるしはらさま
漆原 涼さま
うるしはらさん、お手紙ありがとう。
お手紙を書くと雨が降り、お返事を書くと晴れる。わたしたちの文通はどうやら天候を司る力を得たんじゃなかろうか。
そんな女心と秋の空です。でも空に浮かぶ鰯雲より、秋刀魚の塩焼きが食べたい乙女心ではあるよね(今日ぐらい胡麻鯖*1じゃなくても怒られまい)。
それでは早速、掲載歌について。
1.文語体にどう取り組むか
いわゆるこの歌は文語*2が使われている歌で、普段、詠む/読むときも口語*3短歌バリバリのわたしには、すっと入ってきにくいタイプの歌だった。
その中でいち早くとらえられたのが、
仕事場にたまる胡粉の白き塵の層
胡粉というのもすぐにはわかりづらい*4けど、それの後に続く描写によって白くて細かいチリのようなものであることがイメージできる。
それが層としてうっすら積もっているそういう絵が見えてくる。
こういうチリって細かいから、単体では肉眼に捉えるほど意識できないけれど、それが層になっているということは、ある程度の時間が経っていることを示す。そんな時間を過ごしていた仕事場。
こういうイメージをつかんで、わたしは学校の美術室を思い出しました。放課後の美術室って美術部員がいるからちょっと違うんだけど、美術室の準備室ってあるじゃない。その人気のない準備室で、電気はつけずに、窓から差し込んだ光で見える積もった埃のあの感じ。
胡粉と言われると自然と白い粉が思い浮かぶんだけど(でも顔料の原料だから必ずしも白じゃないはずだけど)、その白さが映えるためには部屋に薄暗さが必要だとも思った。
そういう薄暗い仕事場で、一人いる。
いや、ここでは一人とは言われてない。
でも、じっと座って見ている、自分がいることに気づいたそういう自覚の表れがものすごく静かに立ち現れるような気がしていて、わたしはその静けさに引っ張られるようにして、作中主体があたかも一人であるかのように頭で描いてしまう。
ここまで来てようやく読み飛ばしていた「目にまもり」というのが、じっと見るという意味なのだと捉えられる気がする。
ちょっと気になって調べたけど、「まもる」の項に「目守る」の意があって、だから見守るとか表現するんやなあって思ったよ。
そんでここから守るで展開するぐらいの気持ちになったけど、この話はまた機会があれば笑
それくらい細部を見ているまなざしがあるんだけど、歌そのものの実景は、気づいたらあっという間に時間が経っていたそういう無我のような空白も、わたしたちにだって簡単にオーバーラップできると思う。
いわゆる職業詠だけど、ところでこれってちゃんと仕事してたんかな笑
2.音を崩しつつ、しっかりと立つ
うるしはらさん、私もジャズ好きだよ!
でも好きなのが30年代ぐらいのビッグバンドあたりだし、規則的な裏打ちが好きだから、そうでないもののことはあまりわからない。
ただ、「なり」でいったん切ったように見せかけながら3句目の「仕事場に」で下の句に渡す意味の重なりと、そうやって渡された下の句での音韻の崩しはかなりクールだと思う。
進みながらリズムを崩すタイプの曲の感じって、わたしにはぐにゃぐにゃした音楽として聞こえてくるのだけれど、この歌はそうではなくて、芯のしっかりとしたリズムとしてすっと入ってくる。
っていうのも
tamaru gofun no siroki chirino kasa
といった「の」以外のo音が多用されているのと、n/m/r/g/といった有声音の響きが一定の強さを保っとるんかなあ。
それでいて、字余りに「かさ」という抜けるような音を組み合わせてくるんだから相当テクいよなあ。
だからこの破調はありかなしかで言えば、ありなのだけど、「かさ」であまりにうまく余韻を残してくれるものだから、そのうまさに嫉妬を覚えてきたぞ。
3.目で見て終わらない
ところで、すっと入ってきにくいとか言っといて、現時点でわたしはこの歌もう覚えてしまった。
やっぱり、普段から文語の歌を目にしていない人にとって、こういうタイプの歌は、なんとなく見過ごしてしまうと思うんだよね。
なぜならわたしがその一人だから。
というか、歌の意味がはっきりとわからなくて、だから目ですっと追って、終わりにしてしまう。
それはまだ出会うべきタイミングでなかった、といえば聞こえがいいのかもしれないけれど、そこでわからないと立ち去らずに、
口ずさんでみる。口ずさむことでさらに歌をよく見る。そうするとだんだんイメージが沸き立ってくる。
そうすると思っていたよりも全然とっつきやすいというか、怖くないというか、別にこの言葉で詠まなくてもいいけど読めるんだとか、
そんな風に思ったら、出会える短歌が広がっていくのだと思う。
本当、いろんな歌をよまななあ。
のつ ちえこ
追伸: 福岡ポエトリーこのあいだ初めて参加しました!朗読、緊張した。ご一緒できる機会楽しみにしています!
第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(2)To.ちえこさま
のつ ちえこ さま
いま、雷鳴と一緒に降り出した雨のせいで喫茶店から出られなくなってしまいました。ひどい雨の夜。夏だけじゃなく秋だって驟雨で驚かしにかかっているみたい。
でも、雨の夜は窓の外の雨がひどければひどいほどおだやかな心持ちになれるから、わたしは雨女なのかもしれないな。
前回はちえこさんの「口ずさみたくなる短歌」を紹介してもらったから、こんどは、わたしから愛誦歌を紹介するね。
歌意:じっと見つめながら、ただ仕事場に座っている。座っている前には、胡粉の塵が降り積もって層をなしている。
いったい、どれだけ長い間目を凝らして仕事をしていたのだろう。シジフォスの神話をふと思ってみる。
時間が粉になっていくような虚しさもありながら、「なり」という断定の力強さに現実の手応えがある骨太の職業詠。
1.あまりにも音楽的な、音楽的な。
この歌の音韻を見てみると、
Meni mamori tadani irunari shigotobani
と、上の句は「に」と「り」*1の音が交互に繰り返され、母音レベルではi音の脚韻で統べられていることがわかる。
このリズミカルでスムーズな流れから、4句目では
tamaru gofun
とu音・n音のくもった音の連続によって脚韻は崩されて、
no shiroki chiri no
i音の連続と「の」の繰り返しによってリズミカルさを取り戻す。
このとき結句は8音だから、わずかに早口で読むことになるんだけど、
s/c/k音は無声化による加速感を得て、最後は
kasa
と、a音の明るい音の連続で音韻的なカタルシスを迎える。
2.ジャズはお好き?
ちえこさん、唐突だけど、ジャズはお好き?
ジャズの演奏は簡略に言うと
テーマ(メロディ)→アドリブ(メロディを崩して演奏)→テーマ→締め
という流れ*2で進むんだけど、
この歌のつくりも
i音の脚韻→脚韻をくずす→i音の脚韻→a音
という構造で、ジャズの演奏がメロディの変奏を解決に導くように音韻の変奏を解決していくような音楽的な感覚があるように思えるんだ(強引!)。
この韻律の整え方と崩し方のバランスによって、「口ずさみたく」なってしまうんだよね。
3. 音が読解にもたらす影響
ここで、脚韻を崩しが短歌の読解にもたらす効果を考えてみたい。
この歌から析出される文は次の2文。
①目にまもりただに坐るなり
②仕事場にたまる胡粉の白き塵の層
「なり」と言い切っているから2句切れで、これが文法上の切れ。
だけど「仕事場に」は「坐る」を修飾していて倒置とみることができるから、次のようにも分けることができる。
①目にまもりただに坐るなり、仕事場に→動作主:作中主体
②仕事場にたまる胡粉の白き塵の層→動作主:塵の層
上の句と下の句のそれぞれの動詞の動作主は、3句目以前は作中主体、それ以降は塵の層と変化する。
つまり、3句目は文の「継ぎ目」であり、それぞれ違う主語を持つ文をつなぎ合わせる機能を果たしている。
だから4句目の脚韻の崩しは、上から下へと文が続いていく短歌の詩形のなかにコンテクスト*3の重ねあわせがあり、これから異質な文が始まるのだ、という音声的な合図になっているんじゃないかな。
実際に音読してみてほしいんだけど
目にまもりただに坐るなり、仕事場に たまる胡粉の白き塵の層
というように、句切れではなく脚韻の流れに沿って読むのがしっくりくると思うんだ。
宮柊二の短歌=素朴、実直
みたいな印象を持っている人が多いと思うんだけど、細かく読むと白秋*4ゆずりのモダンで緻密な韻律感覚が浮かび上がるね。
漆原 涼
追伸。こんな話をしていたら、福岡ポエトリー*5に行きたくてたまらなくなりました。こんど、一緒にことばの雨に打たれよう。