カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(1)Re:ちえこさま

のつ ちえこ さま

お手紙、ありがとう( 電子的な媒体だけれど、これはお手紙*1とよびたい)。
晴れ女のちえこさんがお手紙をくれたから、今日はさらりとした晴れです。台風も無事にすぎてよかった。いまは、すこしひやりとしている風が吹いていて、着慣れたシャツを着ていても新しい服を着ているようなさわやかな気分にさせてくれます。

そんな折、ついに穂村弘さんの歌がきた。ほむほむ*2といえば、先日、Twitter上で加藤治郎さんが

とおっしゃっていて、納得しながら笑ってしまった。


それでは、早速掲出歌。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

1.俗悪(キッチュ)ということ

​まず、この歌を読んだ時に「サバンナの象のうんこ」ってところで、9割ぐらいの人は「マジかよ」ってなると思う。「うんこかよ、それもゾウの!」

〈うんこ〉って、書かれているだけで、そこにあるものが茶化されてしまうような破壊性*3を持っている単語だよね。​
それはなぜかというと、短歌に限らず、現代社会のとりわけ公の領域では、排泄行為は人間の聖性を損なう悪いものとして隠し取り除かれているから。
具体物を人前に晒すなんてもってのほか。文字だけでも公に提示するのは、「常識」という人間社会のルールからは少し外れた行為になってしまって、周囲に困惑を生む。
だけど、この短歌は悪ふざけには受け取れないんだよね。だからこそ、ちえこさんは衝撃だったんじゃないかと思う。

2.ほむほむの歌を(聞け・聞けよ・聞いてくれ)5点

この歌が悪ふざけでもなんでもない、シリアスさをもっているのは、ちえこさんが書いていた以下の点にあると思う。

「聞いてくれ」という呼びかけ。「聞けよ」という強い命令形ではないけれど「聞いてほしいな」という控えめな願望でもない(ここんところの微妙なニュアンスを表現する言葉ってあるのかな)


詳しく考えるために〈聞いてくれ〉を品詞分解すると
聞い(動詞「聞く」・連用形)/て(接続助詞)/くれ(補助動詞「くれる」・命令形)
となる。
最後は命令形では結ばれているものの、「くれる」は他者から話し手が何かの利益を受けることを示す言葉だから、ただ「聞け」というよりも相手の行為に対する話し手の期待が強く出る。
文法的にいうと依頼表現といえるんだろうけど、この用語ではちえこさんのいう微妙なニュアンスは取りこぼしてしまうね。
というのは、この微妙なニュアンスが
3句目の〈名詞+間投助詞*4「よ」〉
と合わさってつくられているから、だと思う。
日常会話で誰かに向って直接「~よ」なんて呼びかけるのはあまり聞かない。
「~よ」という呼びかけをするときは、実際に指示した対象を振り向かせるというよりも、指示した対象を通して自分の内面に向かって話しかける、という印象が強い。
これが依頼文と合わさると、ふしぎと懇願めいた切迫感があらわれる。

3.重さと軽さ

王様の耳しかり、斎藤和義しかり、だれにもいえないことの取り扱いは古くからの難問題(アポリア)*5だった、なんていってもどうして象の排泄物にこんな頼みごとをしているんだろう。頼んだところで叶いもしないとわかっているのに。
と考えたときに、きっと、主体*6の心の底には〈サバンナの象のうんこ〉への羨望があるように思う。
〈サバンナの象のうんこ〉は、隠しだてされないままサバンナへと落され、排除されることもない。
俗悪かどうかの区別を与えられることなく、ただそこにあるだけ。だだっ広いサバンナに取り残される孤独は、生まれた瞬間から意味とルールに縛られる人間の抱く孤独よりも、ずっと自由に見える。
だから、自身が日々を穏やかにやり過ごすために殺してきた感情を投げかける対象として、主体は〈サバンナの象のうんこ〉を選んだ。

人間社会で過剰に意味を与えられる「存在の重さ」に倦んだとき、自然の中の意味付けのない「存在の軽さ」に思いをはせるのは、ひどく切実だよね。


漆原 涼

*1:手紙、中国語ではトイレットペーパー。「手紙」に書かれた短歌が奇しくも……。この偶然を楽しみたい。

*2:穂村弘さんの愛称

*3:その顕著な例が落書き

*4:文中・文末について言葉の調子を整え、感動・強調・疑問の意を添える。これが使いこなせると助詞力高い

*5:解決策が見つからない難しい問題の意

*6:作中主体。

第2回 口ずさんじゃう、だって短歌なんだもん(1)To.漆原さま

漆原 涼さま
お元気ですか? 台風が狙ったように週末に来ますね。ちなみにこれを書いている時点、終日ざざぶりの雨でした。窓から外みただけで、あ、これは無理だなって出かけるのは早々に諦めてしまうような。

だからといって家にこもって何かするというわけでもなく、だらだらと過ごしていたら気がついたら1日が終わっていて、そういう時は無責任に雨を恨んでみたりします。私、晴れ女だから雨の抒情がいまいち苦手です。実は。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

前にも言ったような気がするけど、わたしが現代短歌なるもの、それもニューウェーブなるものに出会ったのは、今から10年前の古本屋でだったんですが、そのときの一番の衝撃がこのサバンナの象の歌でした(というかわたしの中では「サバンナの象のうんこ」の歌というのが正しい)。

同じような?衝撃でいうと、谷川俊太郎の「生きる」もそうなんだけど、でも「生きる」は詩ってこんな風に書いていいんだ、こんな形をしていていいんだ、っていう安堵というか愉快さがあった。

それに比べて、「サバンナの象」の歌は、短歌マジかよ、マジかよ短歌!って下の句ができるくらいの、そういう出会いでした。

だから、わたしはこの歌を見てからなんども声に出して衝撃を確かめてみた。声に出すとよりいっそう愉快になりました。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれ

まず、この歌を読んだ時に「サバンナの象のうんこ」ってところで、9割ぐらいの人は「マジかよ」ってなると思う。
「うんこかよ、それもゾウの!」
そして、「聞いてくれ」という呼びかけ。「聞けよ」という強い命令形ではないけれど「聞いてほしいな」という控えめな願望でもない(ここんところの微妙なニュアンスを表現する言葉ってあるのかな)。

とにかく呼びかけられて、立ち止まるとその後に続く、

だるいせつないこわいさみしい

え、超なんとなくじゃん笑 って一瞬思うんだけど、後からじわじわくる。
この言葉にはまりきった感情の立ち上がり方が、あいまいなくせして自己主張してくる感じ。

多分それはこの「だるいせつないこわいさみしい」が、
身体的に直接くる感じ→切なさという少し薄い感情→怖いという強い感情→さみしい、という落ちる感じで、緩急がかなり巧みに使ってある(最初口ずさんでたら順番がよくわからんくなってたけど、でも入れ替えているうちに明らかにこの語順が一番心地よいんよね)。

だから気づいたら感情にとらわれてて、だからわたしは誰かに聞いてほしいんだって、そこで他者を求めてることに気づく。

でもこんなあいまいな強い感情、そこらへんの人に言ってもね。めんどくさいよね。

そんときのちょうどいい距離感が「サバンナの」ゾウで、やっぱり近場の動物園のゾウではない。
しかもサバンナの象は生きてるけど、うんこはそうではない。

聞いてくれって呼びかけてるのに、言葉にして返事をしてくれない相手を選んでる。

ふと考えてみると、聞いてほしいことって、必ずしも言いたいことではないと思う。積極的には言わないけど、誰かに伝わると自分が楽になったりする。そういう微妙な一瞬までが、まるっと31文字込みかよ!マジかよ!

っていってたら、雨上がったみたいです。今週末は台風来ないといいな。晴れておくれ〜(願望)。


のつちえこ

今回の取り上げた短歌の出典:
穂村弘『シンジケート』、1990年、沖積舎
シンジケート