カフェオレと方眼紙

ちょーけっしゃ短歌ユニット「うるしのこ」が短歌よみます

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その11

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)


18.突風に

突風にレジャーシートは舞い上がりゴマの団子が砂にまみれた*1

《う》これは、歌集のなかで目立つタイプの歌ではないけど、言葉のゆっくりとした使い方に宇都宮さんの特質があると思うの。

〈突風〉はビュンって一瞬にして過ぎていくものだけど、この歌では上の句をかけて言っている。〈レジャーシート〉って長音を含んだ長めの単語や、それが「舞う」のではなく〈舞い上がり〉と複合動詞で引き伸ばされているところから、レジャーシートがふわ〜〜っとめくれて上がっていく映像を見せられる。
それから、下の句の〈ゴマの団子が砂にまみれた〉も、粒状のものがまぶされている団子の表面に砂というさらに粒子の細かいものがくっついていく、そんな些細なところを見ている。語の斡旋もまなざしも、スーパースローカメラくらい瞬間を遅延させながら歌にしているところが、すごいなと思う。

〔の〕〈ゴマの団子が砂にまみれた〉って、状況として似通っているというか、〈ゴマの団子〉は既にゴマにまみれているわけで、さらにそれが〈まみれる〉、さらにやる! 過剰! って面白くなった(笑)

《う》ふふ。〈まみれた〉って過剰だよね。「砂がついた」じゃないもんね。

〔の〕たしかに突風がぶわーっと吹いていれば〈砂にまみれる〉ようなこともあるんだろうけれども、過剰さの予兆をなんとなく感じるんだよね。突風にレジャーシートが舞い上がる景があって、それが体感にも迫ってきて、もともとゴマにまみれている団子がさらに砂にまみれるんだから、過剰さの堆積というか、出来事がやたらと圧を持って迫ってくると思った。

《う》なんかもうちょっとした事件だよね。

〔の〕事件性を帯びたね。ふふ。

《う》この〈まみれた〉は「まみれ」じゃなくてここは〈〉だな、と思うんだよね。この時間のゆっくりさが主体の追憶の速度で、体感に訴えて来るけどライブ感はなくて。

19.愛の名の

愛の名のもとにもちよるそれぞれのはるけきUNOのローカルルール*2

《う》これは、私にとってくちずさんでいてたのしい歌。〈の〉の繰り返しのちょっと和歌的な韻律*3とか、
[Ai no Na no Moto ni Mochiyoru Sorezore no Harukeki UNO no Ro-karu ru-ru*4]
って音の重なり方に、リズムというよりはグルーヴ感を覚えます。〈ロカーカルルール〉という語句がこの一首の中に置かれて鼻歌みたいな響きを得ている。

すでにでてきた、プールの歌

歩きつかれた平たい夜にプールくさい君との記憶がひとつあること

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その6 - カフェオレと方眼紙

のときにちえこさんが〈プールくさい→君〉と〈プールくさい→記憶〉という語のかかり方をいってくれたけど、この〈はるけき〉も似たような修飾をしていて、〈UNO〉にも〈ローカルルール〉にもかかるかな、と思う。

〔の〕どっちかっていうとこれ、私は〈ローカルルール〉にかけて読んでたかな。ローカルルールって無尽蔵にあるから。

《う》あ〜、そっか。最初、結句の体言に向けて収束していく型とも思ったんだけど、〈もちよる〉があるから修飾が入りくんでいるように見えちゃったんだね。これが〈UNO〉にも〈ローカルルール〉にもかかりうると読んでいて、ルールだけじゃなく札もそれぞれ持ち寄ったものがたくさん連なって物理的に広がりのある状況を思ってしまった。

〔の〕なるほど、なるほど。それぞれに、かあ。

そうそう、これ、ババ抜きだと成り立たないよね。トランプは札の数も限られてるし、ルールもそんなに派生していない。UNOは札もカラフルで種類がたくさんあって、戦略もたくさんある。

《う》うんうん。しかも、トランプほど定番でもなく、これが流行真っ只中というわけでもないところもポイントだよね。

結句まで読んでまず互いのローカルルールの隔たりを思うんだけど、また〈それぞれ〉に立ち返って読むと、ローカルルールが記憶の中でおぼろになっている、という各人の抱える時間性にも〈はるけき〉という語が効いてくるんじゃないかな。

〔の〕おお〜、そうね。

《う》素直に読む限りは思想性がどうということはないと思うんだけど、ただただ諳んじる楽しさがある。

〔の〕ふふふ。愛唱性とは違うんだけど、なんかこう、切り札をすっと差し出すみたいに言いたくなるよね。そういう響きのかっこよさ。

《う》それ、それ。※つよく頷く漆原※
〈愛の名を〉って大仰なところから入るからかな。結局、題材としては懐かしのカードゲームのことで、最後はユーモアの含まれた感じになる。

〔の〕最初に〈愛の名を〉って大きなところから入り、〈(ルール)を持ち寄る〉って概念的なものを〈UNO〉によって本当に手に持ってくるような表現の面白さが出てくる。そこからまた〈それぞれの〉だから、個の集まりの話になって、〈はるけき〉で再度広がって、最後は〈UNOのローカルルール〉という身近なところで落ち着かせる。きゅっきゅっと効果的にくびれを作っている歌だと思う。

20.人呼んで

人呼んでちゃらんぽらん サビすら歌えない歌を好きと言いきる生きることの天才*5

〔の〕ふふふふ。でましたね〜。

《う》ふふ。これもすごいよね。
〈人呼んで〉ということは、誰かが他者からも〈ちゃらんぽらん〉として認知されている状態。
ここでいう〈ちゃらんぽらん〉さの具体として、〈サビすら歌えない歌を好きと言い切る〉ことが出てきて、しかもそうやって〈言いきる〉さまは〈生きること〉における〈天才〉と言っているわけだから、〈ちゃらんぽらん〉すなわち〈天才〉で、この人は〈ちゃらんぽらん〉である状態を貶しているのではなくて、賞賛していると私は受け取っている。
短歌的な読みの約束として、主語がない場合の文はひとまず主語を私として読む、とすると名乗りの歌になるわけだけど、かなりご機嫌な口上だと思う。
〈サビすら歌えない歌を好きと言いきる〉というのは、熟知しているわけでもない事柄に対しても身構えないで直感的に「好き」と表明する態度というふうに一般化して説明することもできそう。ここで〈サビすら〉と強調しているから、歌の一番有名な部分すらあやふや・よく知らないことを強く意識はしていると読める。でも、それでも踏み込んでいける大胆さがあったら、きっと生きやすいよね。そうやって〈好きと言いきる〉ことは他者に対する肯定でもあり、自分自身の感性に対する肯定だから。

〔の〕〈ちゃらんぽらん〉って言われると、私の場合「おおっ……!?」ってなる。ちゃらんぽらんなんて、言っていいの? っていう戸惑いとして。〈人呼んで〉だから、公共性のある場所で、後ろ指さされかねないことを前面に出してきて、一字空いてその内容を具体というか膨らませて言ってしまう。その具体化させる内容が、直感的によしとできる、という肯定であることがとてもよいよね。しかも、そのよしと信じる態度を盲目的だと批判するわけでもないから、ここで〈天才〉と言ったときの嫌味がまったくない。

《う》たしかに! ないね。

〔の〕〈言いきる生きる〉っていう音の連なりもいい。

《う》うんうん。しかも、〈好きと言う〉くらいなら場当たり的にできるかもしれないんだけど、〈言いきる〉という断言。

〔の〕迷いがない。言いきることで、ここで真に、かたく確かなものになる。

《う》そうね。そして、二句目の〈ちゃらんぽらん〉は6音だから、欠落があるぶん次の句の音がスライドするように入り込んで来る。そこからは

サビすら歌え(7音)/ない歌を(5音)/好きと言いきる(7音)

と定型は生きていて、それに従って読むことができるんだけど

生きることの天才(10音)

と一気にこちらの定型感覚を裏切って音をあふれさせてくるから一度ブレスを入れるかどうかの判断する前に最後まで一息に読み上げることになる。それで、〈天才〉まで読みきったとき、ものすごく痛快だった!

〔の〕ふふふ。天才まで一直線に最後の音までいくよね。そこも、主体の語気として迷いのなさを感じる。
これ、私が天才なのか誰か別の人のことを言っているのか、出てこないからわからないけど、やっぱりどっちなんだろう。

《う》ひとまず、私は、主体=天才として読んでみたけど全然確定はできないよね。自分のことをいうにしても他人のことをいうにしても、導入部分に宣言的なところがあって、〈ちゃらんぽらん〉と他人から呼ばれるときの揶揄まで引き受けて〈天才〉と賞賛する気概が核にあると思う。

〔の〕短歌の表現においてここまで言うの難しくて、〈天才〉と言ったときにコミカルさやデフォルメの方向にニュアンスが向かいやすいんだけど、ここは純粋に肯定のために結句で引き受けてしまえるのは本当にすごい。

《う》うんうん。このちゃらんぽらんの境地って、宮澤賢治が「雨ニモ負ケズ」で表明した〈デクノボー〉、凡人の賛美に近いものを感じるんだよね。宇都宮さんのほうが幾分ポップになってはいるものの。

〔の〕ああ、その言いたい感じは伝わる。これも励まされる。

《う》というところで漆原選20首も完結です。ふー、ちえこさん、ありがとう。

〔の〕お疲れさまでした!めっちゃ楽しかった〜〜!!!


3月から全11回にわたって更新してきた「うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む」篇もこれにて完結です。お付き合いいただいたみなさま、本当にありがとうございました。
次回は6月より橋本喜典『聖木立』を取り上げます。

*1:p133

*2:p91

*3:cf.あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂など

*4:*カタカナ表記なので日本語の発音に準拠しています

*5:p121

うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む・その10

読んでいる歌集『ピクニック』

ピクニック (gift10叢書)

ピクニック (gift10叢書)

14.くちびるに

くちびるに思い上がりを 下りてゆくエレベーターからみる雪が好き*1

《う》三句〜結句の文にくらべると、〈くちびるに思い上がりを〉という文の解釈はいろいろありうるよね。この歌をどう読んでいくか考えるときに、それが難所でもあると思うのよ。
まず私が想定したのは、「われに五月を」とか「くちびるに歌を」と同種の言い回し。倒置を戻すと「思い上がりをくちびるに」となって、思い上がることへの希求がにおってくる。

それから、もう一つは文語脈の歌でよくある逆接〈を〉の可能性も捨てきれなくて、「くちびるに思い上がりはあるものの、下りていくエレベーターからみる雪が好き」という意味合いもありうる。ただ、一字開けを挟んでいるからそこを無視して完全にひと続きの文と見るわけにもいかない。

どちらにせよ、言いさしの先は歌の中には見つからないから語釈を明快に絞れないんだけど、一つだけ動かなかったのは、思い上がりという思考の状態がくちびると結びついているということ。

それ以上のことは保留にしながら下の句を読んでいくと、エレベーターで下りていくときの独特の引きずられる体感が刺激された。そうやって歌が私という読者の身体に入ってきたとき、思い上がったときのくちびるの動きとして口角がきゅーっと引き上げられる体感も得たんだよね。

歌の中に、単純に上下二つの語があるだけではなくて、異なる方向の体感を呼び込むのが面白くて、好きな歌です。

〔の〕〈思い上がりを〉だから、必ずしもくちびるの動作に感情が乗っかってくるのかはわからない部分なんだけど、でも読んでいくときゅっと口角を上げたくなる感じはあって、エレベーターの重力がぎゅーっとかかるときの体感と重ね合わせを読んでいくのは、ひとつ面白いと思った視点。

〈思い上がりを〉というと、調子に乗ってるな、というややネガティブなイメージというか、ちょっと「ん?」って思わせるところがあって。

《う》ほんと? ネガティブだった?

〔の〕うん。一般的に「思い上がり」って、相手を非難するときに使われることばじゃない? 言い止しだから、わりとフラットめには配置されているんだけど。

その非難のイメージやニュアンスにひっぱられて、この表現を解釈するときに私は一瞬立ち止まることにはなったな。

で、そこから一字空いて〈下りていくエレベーターから見る雪が好き〉とつながるから、ここに「上下」としての対比を感じる。そして最後に〈好き〉というところに落ち着くから、当初一首を読むなかで想定していた〈思い上がり〉の気持ちの強さとは違う方向にむかう読後感があるね。

《う》ああたしかに、下の句で好きなものを言われることで、思い上がったときの「心が浮きたつ気分」が引き立てられていると思う。
実は私はそんなに〈思い上がり〉にネガティブな印象はなかったんだよな。
それを左右するのは、やっぱり〈を〉の取り方になってくると思うんだけど、〈を〉に希求するニュアンスを受け取ると、思い上がりと自分を牽制しつつそれに浸りたい主体の心情をみることになるから、よろこび成分を強く感じ取ったんだと思う。私は。
下りのエレベーターは少し身体が浮くような一瞬があって重力がかかってくるから、浮かれる自分を制する心の動きにもほんのりとリンクしてくるな。

〔の〕体感にすごくくる歌だよね。読みも身体感覚をものすごく感じてるんだなあ、と。私は〈思い上がり〉をどう取るか、とか、三句目以降の景をどう結びつけていくか、で立ち止まっている。

《う》そっか。字空きの前後で飛躍はしてるもんね。上下の方向を示す言葉があっても、語句の質が違うね。

〔の〕そうそう。でもどちらも「上下」にまつわる語であるゆえに、連関性は発見できるじゃない。だからこそ、そのふたつのイメージを読みのなかで連関させていこうとしたときに、その質の違いから確定的には結び付けられなくて、どうしようかなってなる。
だから私的にはあまり読めていない歌。いい感じだな、くらいのところで止まる。

《う》そうなんだよね。現状、私が言ったのって客観的にテクストを読むところからは逸脱気味なんだよね。
でも、体感を通して読むと、思い上がったときにはそれを抑えようとうつむく首の動きも出てきて、その斜め下に向かう視線の中に自然と外の雪が落ちながら入ってくるところまで見えて、面白かった。

〔の〕うんうん、いいですねえ。

《う》降る雪のさなかへ同化していくようにエレベーターで下りていくのは、この主体にとって無害な思い上がりのひとつかもしれないな。まあ、思い上がりが何かっていうのは、この作中主体だけが預かり知るもののままでいいんだけどね。

15.浅知恵の

浅知恵の深読みたちをだまらせる折り目正しく乱れるシーツ*2

《う》こういうレトリカルさは宇都宮さんの持ち味だな、と思って引きました。

「浅い↔︎深い」、「正しい↔︎乱れる」というような相反する語が順に提示して、読者をいい意味で撹乱させる。この〈浅〉は、〈シーツ〉という語と共に提示されると「朝」の掛詞としてはたらきうる。それで〈乱れるシーツ〉とくると、どうしても性愛の結果として残る乱れと思ってしまうんだけど、上の句で〈浅知恵の深読みたちをだまらせる〉って言われてるから……

〔の〕ふふふ。ここ釘を刺してきたね!

《う》そう。メタできた(笑)

だから、私はこの歌にこれ以上立ち入ることは禁じられているんだな、この読み方は〈浅知恵の深読み〉なんだな、と慎みました。

〔の〕私は、今言ってもらった以上のことはもう言えないというか、おお……(踏み込むのよくない)と思って次に行く。

《う》レトリカルでメタなんだけど嫌味がないし、性愛の歌なのに清潔だなと思って。
〈折り目正しく〉って慣用句だけど、シーツという物質に修飾がくるので、逐語的な意味が復活してると思うのよ。私はここで具体的に、きれいに糊付けしてアイロンがけされた清潔なシーツを想像しかけた。でも、やっぱり〈折り目正しく乱れる〉だから、読解上とてもノイジーではっきりと具体を掴ませてはくれない。それが、この歌の清潔さだと思っている。
かろやかにイメージを裏切る修辞の展開に惹かれるんだよね。

16.破れたのは

破れたのは夢ではなくて船だから木切れが夢の岸に届くよ*3

《う》『ピクニック』には、心くすぐるような歌がたくさんあるんだけど、こういうどこか苦味のある歌が散見されるところが、作品世界に奥行きを与えているんだよね。

破船。悲惨なイメージでありながら、語気の穏やかさからは童話的なイメージに収斂していく……でも、どちらにしても取り返しがつかない感じがする……ん? こんなことが言いたかったんじゃないな。あれれ。

〔の〕うん、うん。破れたのは夢ではなくて船だから、「その船の木切れが」夢の岸に届きますよ、ってことだよね。※助け舟を出すのつ※

これ、面白いなって思ったのが〈届くよ〉。偶然漂着した、ということなのかもしれないけど、なんだか「届けられた」感じが私にはする。「木切れが来るよ」みたいな。

《う》あ〜、それわかる。willのニュアンス。〈届く〉という動詞には「相手方の場所にものが着く」意味合いもあるし、文末の〈よ〉に、この文に発話対象を引き寄せるところがあって、主体の現在の眼差しが向けられている点(船)→発話の対象がある地点(夢の岸)みたいな指向をぼんやりと感じている。
どこに主体がいるのかは特定できないけど。

〔の〕それで「夢が破れたのではない」とは言っているものの、この歌は挫折してしまった状況に対してなにか発せられたような気がする。
普通「船だから気にしなくてもいい」というふうに接続すると思う。でもこの歌は、「壊れたのは夢そのものではなくて、夢の中にある船が壊れて、その結果として船の一部が夢の岸に来るよ」というわけだよね。読んでいくと難しくなっていくね。

《う》そうなんだよ〜。難しいのは名詞の性質のせいもあるのかな。
〈夢〉は、寝ている間に見るものにしても将来にむけて抱くもにしても、抽象的な名詞だよね。でも、〈夢ではなくて船〉というふうに、船という実体を持ちうる名詞と並んで、しかもその破片まで出てくることで、夢にも実体があるかのように読者が受け取ってしまう部分がある。
だから、単に〈夢の岸〉とだけ提示されたときの比喩的なニュアンスを越えて、リアルな場所として浮かび上がってくるのよね。
そこで、錯綜してしまう。それは読みのつまずきということではなくて、ことばによって現実と非現実のあわいに誘われる読みのよろこびだと思う。そのあわいを行き来する媒介が〈木切れ〉。すごく不思議な印象が残る。

深い痛みを内包しているのに、韻律はあくまで穏やかで、[yumeとfune]とか、[Kogire ga Yume no Kishi ni todoku yo]のコ・キ・クっていう音の安定感もいいな。

〔の〕夢と船は脚韻だね。語気を荒げることなく、叱咤激励でもない。

《う》うん。そして、さっきちえこさんが言ってたように、〈ではなくて〉に続くのは救いや慰めでもない。この穏やかな口ぶりはかえって毅然としているね。

17.年甲斐もなく

年甲斐もなく浜風にはしゃぎ 夏 花火をみた 秋 花と火をみた*4

《う》初読のとき、〈花火〉をみたところから時間を経て、〈花〉と〈火〉にそれぞれ分岐するところに、素朴に感動した。花火という語を見慣れすぎていて、この語が〈花〉と〈火〉を合わせてできた語だと忘れてしまっていて、「そっか、この語を腑分けするとこんなに美しいものがでてくるのか!」 っていう言語的なよろこびがあった。
この歌の主体ははしゃいでいるんだけど、〈年甲斐もなく〉と自らを制する眼差しがあるから、それが〈はしゃぐ〉ことに対しても、そして〈夏〉〈秋〉と季節を重ねていくことに対しても、静かな感慨を含んでいる。

〔の〕私も初読で〈花と火をみた〉に惹かれるものがあった。改めていま読むと、この〈年甲斐もなく〉があってこそだな、と思う。〈年甲斐もなく〉でも、〈はしゃぐ〉から気持ちは上がるじゃない。上がったところから夏に花火をみて、〈秋〉ってくると季節的にも少しトーンダウンして、花と火をみる。確実に変化はしているけれども、それが激しくはなく、季節がすーっすーっとなめらかに移り変わる感じできて、しみじみしてしまう。
それといまふっと思ったんだけど〈秋〉にも〈火〉が入ってるね。

《う》あ、ほんとだ、火。
主体は無闇にはしゃげるわけでもないんだよね。
花火って手持ちにしても打ち上げにしても燃えながらはじけていく華やかなもので、その次の季節にはそれより自然をみていて、抒情の質も穏やかに深まっている感じがする。
あと、文字列をみると、花火が浜風に吹かれて 花 火 って散って広がっていくみたい。

〔の〕おお〜。なるほどね。じんわりくるな。


3月から更新してきた「うるしのこ、宇都宮敦『ピクニック』を読む」篇もいよいよ残り1回となりました! 次回もよろしくお願いします。

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